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母と台所3

私が中学2年生の時、自宅を建てました。注文住宅です。キッチンは6畳のダイニングキッチン。窓のある北側にクリナップの大きなセクショナルキッチンが並びました。元祖クリンレディだったと思います。大きなステンレスシンクの前に横長の窓があり、隣家が見えました。母はそこにハーブならず、ニンジンや大根の葉をヨーグルトのトレイを作って置き、生育を楽しんでいました。なんだか天然な母です。今のようなシステムキッチンではなくて、ガス台は一段下がり、そこにガスコンロとガス炊飯器を置いていました。新築に合わせて買った大きなダイニングテーブルにペンダント照明、母のたっての願いで取り付けた鳩時計。メルヘンな母です。しかし新築のローンを払うだけでなく、水道光熱費がびっくりするほどかかることに程なく気づき、母は働こうかと思い始めます。ヤクルトレディやら化粧品レディやら、生保のおばさんやら、たい焼き屋のおばさんやら。で、結局採算が合わず働いてもお金は残らず人間関係にも疲れて張り切っていたお料理も面倒になっていきました。そんな時に紹介されたのが宅配の料理セット。わざわざ買い物にいかなくても毎日バランス良く考えられた献立にちょうど良い食材が届く、アレです。するとそれに興味シンシンになってしまったのが私です。母に頼まれた訳でもないのに、見様見真似で夕食調理を始めました。それがまぁ楽しくて。ある時は仕事で疲れて先にお風呂に入った母に変わり作っていたら、お風呂にもご馳走のいい匂いがしてきたらしっく、お風呂から上がった母は、「あーしあわせ」と開口一番。私はたまたま楽しんでやっただけなのに、これでは毎日作らされる、勉強も部活も
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母と台所2

私の一番古い記憶の母が使っていた台所は、1960年代に開発された、いわゆる公団スタイルのキッチンでした。とは言っても、当時の住まいは公団だった訳ではなく、コンクリートブロックの2軒長屋の公務員住宅でした。寒い北海道では戦後多く建設されたコンクリートブロックで二重サッシの住宅は狭いながらも憧れの住まいだったと思われます。間取りは1DK。深く暗かったですがお風呂もついていました。台所はシンクを挟んで片方にコンロ、片方に調理台でステンレス製。シンク下はオープンな作りの、あの爆発的に流行した「公団キッチン」です。その「公団キッチン」も当時としては憧れのキッチンだったのでしょう。私はそれを当たり前にあるものとして見て育ちました。小学校3年生の終わりに引っ越した先は同じ公務員住宅でも4階建の団地スタイルでした。間取りは2DK。そしてキッチンは同じく公団スタイルの台所でした。鉄筋コンクリートの団地に石油ストーブを焚くと真冬でも暖かく、文字通り真冬にアイスクリームの北海道です。西洋かぶれの父はソファとダイニングセットを買い、リビングとダイニングはアメリカ的生活。私と弟は2段ベットで寝て、両親と幼い妹はリビングを片付けて川の字で寝ていました当時よくある中流家庭の風景でした。思いおこせば、その頃の5年間は母に取って落ち着いて子育てが出来ていた時期だったのかもしれません。だいたいにおいて、料理と作る母は穏やかだったように思います。ただ、小学校の面談から帰ってきた母はいきなり血相を変えて、明日の登山遠足のおにぎりは作ってあげないから、自分で握って飲み物も自分で用意して出かけるように、と厳命した時には驚
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