はじめまして。
私は、七彩空間という屋号で仕事をしています。
私の母は、台所仕事が苦痛でした。
たぶん一番の理由は、母がまだ中学生の頃、祖母に100円だけを渡されて、母の兄弟と祖父母、そして母のふたりの祖母の夕食の準備を毎日させられていたことから始まったのでしょう。
大家族の夕食を仕事を持つ祖母の代わりに作る。
それも昭和20年代とはいえ、たった100円で。
それも賄いなどろくに勉強していなかった中学生の時にいきなり。
母の兄弟たちは、母の話では「また油揚げか」などと、ワンパターンになりがちな母の手料理に不満たらたらだったそうです。
多分叔父叔母には悪気はなく、食べたい盛りのこどもらしいこどもだったのだと思います。
でも思春期で多感な母はいつも辛い思いで夕食を作っていたと言います。
今ならヤングケアラーという言葉が蔓延していますが、子だくさんがいいとされた戦前生まれの世代は、上の子が下の兄弟の世話をすることはしごく当たり前の時代だったと思います。
母は中学校での学業成績は優秀だったそうです。
当人は自覚なかったようですが、長女ゆえののんびり屋さんだったのでしょう。
中学校での進路面談では成績優秀で、学費の安い公立の旧女学校への進学も大丈夫と太鼓判を押されたほどだったそうです。
それが、成績優秀ならば勉強しなくてもいい学校に入れるね、と祖母は家庭での勉強を禁じ、ますます家族の面倒を見ることを強制したのだそうです。
3年生になってからは周囲が勉強に熱心になることをわかっていた母は、祖母に懇願します。
参考書を買って欲しい。
家でも勉強がしたい。
先生はそう言ったけど、勉強しないと受験に失敗する。
皆、家でも勉強をしている。
祖母はそれを許さず、単語帳のような豆本だけを買え与え、勉強する時間は皆が寝た後、布団を被って寝ながら豆本を読んでいたそうです。
結果、母は第一志望の公立高校の受験に失敗します。
それでもこれからは高校くらい進学したいと祖母に懇願し、滑り止めの女子校への進学を決めます。代わりの条件は、修学旅行へは行かない、というものでした。
母の祖父方の祖母、私にとって曽祖母は明治の女学校を卒業した女性でした。
とても裁縫が得意で、逆にお嬢様育ちで必要性がなかった為か、お料理が不得意だったそうです。
祖父はそんな曽祖母の影響からか、「ものづくり」が得意で、男ながらも工業用ミシンも扱える人でした。
母はそんな祖父が大好きで、ひょっとしたら家族の夕食を非難轟々浴びながら作ったことだけではなく、そんな時間はお裁縫がしたかったのかもしれません。
実際、結婚し子育て中の母は編み物や手芸、縫い物をしている時は機嫌が良く、夕ご飯の支度になると機嫌が悪かった記憶があります。
それでも母は料理が上手になりたいと思い、事情が許せば栄養士の資格を持てる職業に就きたかったそうです。
子どもの頃の私の家には料理本が並び、母は何回も失敗しながらお菓子を作ってくれました。
母はコンプレックスを持ちながらも、台所仕事が大切だと思っていたのだと思います。
食べることがなによりも大切だと思っていたのだと思います。
食べて寝なければ健康的に過ごせない、と思っていたのだと思います。
時代は変わり、食べるものを作ることの意味も少し変わり、街中には買ってすぐに食べられるものが増えました。
キッチンでする作業も変わりました。
また、キッチンは単に食べるものを作る場所だけではなく、コミュニケーションの場だったり、楽しむ場所になってきました。
数年前、母は自分で自分の食べるものを作ることが嫌になり、施設へ入りました。
施設では、毎食予算内で栄養計算された食べ物が毎食出てきます。
季節食もあり、配慮されていますが、母の食べたいお寿司や果物は出てきません。
私は思います。
いくつになっても食べたいものを食べたくなるのではないか、と。
難しいことは抜きにしても、自分が健康でいられて楽しく美味しく自宅で食べられることは大切でそれだけで幸せなのではないか、と。
キッチンは住まいの中でとても大切な場所だと思います。