言葉はいろいろな解釈ができる。というか、できてしまう。同じ言葉でも使い方によって、辛辣になってしまうこともあれば、真逆に伝わったり、まれにまったく伝わらないこともある。
こちらとしては、もしくは向こう側が何の悪意も含んでいなくても、悪意の味が醸成されてしまうこともある。
他者の言葉をどう解釈するか
他者の言葉をどう解釈するかは、180度状況を変容させる、すさまじい力を秘めている。自分がどう解釈するか次第で満たされることもあれば、心が削られる痛みも味わう。
であるからこそ、私たちが人間関係で抱く無意識の偏見(アンコンシャスバイアス)、心の中にインストールされている分析システムを適時アップデートし、バグの修正、脆弱性の補修や調整をすることが重要になってくる。
あなたは他者(人、メディア等)の意図を解釈するときのあなたの解釈吟味の基本型プログラムはどんなものだろうか? これを認識できているかどうかでメンタルコントロールの技量が大きく左右されてしまうから、非常に重要なオペレーティングシステムのはずである。
「言葉」によって痛みを感じる傾向
もしも、この記事を読んでいるあなたが、どんなことにしろ、心が動揺しやすい、とか、相手の真意は不明でも「言葉」によって痛みを感じる傾向があると自認しているのであれば、
そして願わくばそんな不安定さを今より減らしたいなら、外側の言葉を自分がどう解釈(分析処理)しているか点検してみることをおすすめしたい。
ストア哲学の哲人マルクス・アウレリウスはこんなことを言っている。
自分が害を被ったという思いを取り除け。そうすれば害そのものも取り除かれる。害を被っていないと捉えているならば、害は消えてしまうのである
ー自省録:マルクスアウレリウスー
他者の言葉が気になること自体に善い悪いはないと思われる。しかし、大切なポイントは、言葉を受け取ったときの第一次解析結果よりも、その解析結果をもってして「どう行動するか」なのではないかと、マルクス・アウレリウスの言葉を読んで妄想する。
罵詈雑言のボールがあなたに投げられたとして、つまりその事実は変わらないとして、そのボールをどの構えで受け止めるかは100%こちらのターンであり、こちらのターンということは「どう行動するか」はこちらにその自由があると見ることもできる。
ブッダの逸話
これを妄想しているときに、ブッダのこんな話を思い出した。たしかこんな逸話だった。
ある時、ブッダのもとに一人の若者がやってきました。この若者はブッダの教えを快く思っておらず、ブッダを罵り、口汚くののしり続けました。それをブッダは静かに、ただ黙って若者の言葉を聞いていました。
若者が思いつく限りの罵詈雑言を言い尽くし、疲れて黙り込むと、ブッダは静かに若者に尋ねた。
ブッダ:「もし誰かが、あなたに贈り物をしようとして、あなたがそれを受け取らなかったら、その贈り物は一体誰のものになるだろうか?」
若者:「それは、贈ろうとした人のものに決まっている。相手が受け取らないなら、贈った人が持って帰るしかないだろうさ。」
ブッダ:「そうか。それと同じように、あなたが私に言った言葉(悪口や罵り)も、私は受け取らなかった。だから、その言葉は、すべてあなた自身のもとにとどまるのだ。」
若者はこの言葉を聞いて、自分の言動がブッダには何の害も与えず、ただ自分自身に返ってくることを悟り、愕然とした。
という話である。
真意は別として、与えられた悪意を受け取らなければ、それは与えた側(罵った側)にそのまま返る、つまり、相手の言動は相手自身の問題であり、自分がその影響を受けるかどうかは、自分の選択次第(言葉の解析結果を基にした判断)だということだと思う。
他者の著作権にあなたが責任を持つ必要はない
他人の言動や行動の「著作権」はだれが有しているのかを正しく受け止めることができるようになれば、今よりもずっと適切に対応できるようになるだろうと想像する。
他者の言葉と行動はその人に「著作権」がある。私にはその著作権は無く、よって責任も無ければ、関わるかどうかもこちらが決めていいのだから、つまり突き詰めると、何一つ私に作用しないはずのものばかりである。
もちろん、これは机上の話を展開しているのだけれど、実際の生活の中でもこれを生き方のワークアウトとして少しずつトレーニングを重ねて損はないと思う。
簡単なトレーニングとは言えないが、残念ながらトレーニングをしないとメンタルマッチョになれないし、使わないメンタルは衰えていく。今すぐトレーニングに励もう、と自分に言い聞かせている。