第1章 始まりは雨の午後
雨音が、三鷹のアパートの薄い窓ガラスを細かく叩いていた。時計の針は午後三時を少し回ったところで止まったように動かない。私は、カップに注いだばかりのインスタントコーヒーをすすりながら、窓の外をぼんやりと眺めていた。仕事は休み、友人たちも皆どこかへ出かけている。こんな静かな午後は、普段なら退屈で仕方がないはずだ。しかし今日は違った。
スマートフォンが震えた。画面には「西村」の文字。彼女は私の大学時代からの親友であり、困った人を放っておけない私の性格をよく知っている。通話ボタンを押すと、すぐに彼女の慌ただしい声が耳に飛び込んできた。
「ねえ、ちょっとお願いがあるの。駅前のカフェで変な事件があったみたいで、警察も来てるんだけど、私、目撃者として呼ばれちゃって……」
私はコーヒーを飲み干し、傘を手に取った。負けず嫌いでおせっかいな自分の性分が、こういう時に強く顔を出す。雨の中、駅前まで走るのは億劫だが、友人が困っているなら放っておけない。
駅前のカフェは、雨に濡れた人々でごった返していた。警察官が数人、店の入り口を封鎖し、店内には黄色い規制テープが張られている。西村は、青ざめた顔で店の外に立っていた。私が駆け寄ると、彼女はほっとした表情を見せた。
「ごめん、急に呼び出して。なんか、店の奥でお客さんが倒れてたらしくて……」
私は彼女の肩を軽く叩き、「大丈夫、私がついてる」と笑ってみせた。正義感が強い姉御肌だとよく言われるが、こういう時はその性格が役に立つ。
その時、店の奥から一人の男が現れた。30代半ば、黒いコートに無精ひげ。目つきは鋭いが、どこか人を寄せ付けない雰囲気をまとっている。彼は警察官の質問に短く答え、淡々とした態度を崩さなかった。
「あの人、さっきからずっと冷静なの。なんか普通じゃない感じがするのよ」と西村が小声でささやく。
私は興味を引かれ、男の方へ歩み寄った。彼の目が一瞬だけこちらを捉えた。何かを見透かすような、冷たい視線。しかしその奥に、ほんのわずかな優しさのようなものが見えた気がした。
「すみません、何かお困りですか?」私は思い切って声をかけた。
男は一瞬だけ驚いた表情を見せたが、すぐに無表情に戻った。「いや、特には」と短く答える。その声は低く、どこか影を感じさせる響きだった。
私はその場を離れ、西村のもとへ戻った。だが、あの男のことが気になって仕方がない。なぜあんなに冷静なのか。なぜ、あの場にいたのか。雨の午後、私の中に小さな謎が芽生え始めていた。
その日の夜、私は自室のベッドで天井を見上げながら、あの男の顔を思い出していた。あの目の奥に隠されたものは何なのか。私の正義感と好奇心は、静かな雨音の中で静かに燃え上がっていった。
こうして、私と彼――伝説の殺し屋と呼ばれた男――の物語が、雨の午後に静かに幕を開けたのである。
第2章 伝説の男、普通の顔
あの雨の日から数日が経った。事件の余波はまだ駅前のカフェに残っていたが、私の生活はいつも通りに戻ったようで、どこか違和感が残っていた。その違和感の正体は、あの男――黒いコートの男、朝倉遼である。彼のことが頭から離れなかった。あの日の冷静すぎる態度、鋭い目つき、そしてどこか人間味の薄い、影のような存在感。西村も「あの人、絶対普通じゃないって」と言っていたが、私はむしろその「普通じゃなさ」に強く惹かれていた。
そんなある日、私は偶然にも再び朝倉と出会うことになる。場所は駅前のスーパー。私は特売の卵を巡っておばちゃんと軽く小競り合いをしていた。負けず嫌いな性格がこんなところで発揮されるのは我ながら情けないが、卵は生活の基本である。ふと横を見ると、あの時の男が静かに豆腐を手に取っていた。黒いコートではなく、薄いグレーのパーカー。無精ひげもきれいに剃られている。驚いた私は思わず声をかけてしまった。
「……あの、カフェでご一緒だった方ですよね?」
朝倉は一瞬だけこちらを見て、ほんのわずかに口元を緩めた。「ええ、そうですね。偶然ですね」と、まるで天気の話でもするように淡々と返す。その普通さに拍子抜けした私は、思わず笑ってしまった。
「スーパーで豆腐買ってる伝説の男、って感じですね」
朝倉は少しだけ目を細めた。「伝説の男、ですか?」
「いや、なんか雰囲気が普通じゃないから。あの日も、冷静すぎて警察の人たちより落ち着いてましたし」
朝倉はしばらく黙っていたが、やがて「そう見えるのなら、得をしているのかもしれませんね」とだけ言った。その言葉の裏に何かが隠れている気がしたが、私はそれ以上追及しなかった。
二人でレジに並ぶ間、私はなぜか緊張していた。彼の隣に立つと、周囲の空気が少しだけ冷たくなるような気がする。しかし同時に、不思議な安心感もあった。普通の人とは違う、けれどどこか優しさを感じさせる雰囲気。私は思い切って話を続けた。
「普段は何をされてるんですか?」
「今は、特に何も。少し前までは、まあ、色々と」
「色々?」
「ええ、色々です」
曖昧な答えに、私は少しだけ意地悪な気持ちになった。「怪しいなあ。もしかして、スパイとか?」
朝倉は珍しく笑った。声を出さずに、口元だけがわずかに上がる。その笑顔は、どこか寂しげで、それでいて温かかった。「スパイは向いていません。嘘をつくのが下手ですから」
私はその言葉に少し驚いた。嘘をつくのが下手な人間が、あの日のような冷静さを持つだろうか。だが、これ以上深く聞くのは野暮だと思い、話題を変えた。
「じゃあ、今度お茶でもしませんか? あの日はバタバタしてたし、ちゃんと話してみたいです」
朝倉は一瞬だけ考え込むような素振りを見せたが、やがて「いいですよ」と静かに答えた。その返事が妙に嬉しくて、私は思わず笑顔になった。
こうして、伝説の男と呼ばれた朝倉遼と、普通の生活を送る私の奇妙な交流が始まった。彼は普通の顔をして、普通の言葉を話す。だが、その奥には何か大きな秘密が隠されていることを、私はまだ知らなかった。
後日、二人でカフェに行ったとき、朝倉はコーヒーを一口飲みながら静かに言った。「人は、過去を隠して生きることもある。でも、隠しきれないものもあるんです」
私はその言葉の意味を深く考えることなく、「私も昔、色々やらかしたことあるし、お互い様ですよ」と軽口を叩いた。朝倉はまた、あの少し寂しげな笑みを浮かべた。
伝説の男は、普通の顔をして、私の隣に座っている。その事実が、私にはなんだかとても不思議で、そして少しだけ誇らしかった。
第3章 事件は突然に
その日も私は、朝倉と駅前のカフェで待ち合わせていた。外は春の終わりを告げる雨がしとしとと降っていたが、私の気分は妙に軽かった。朝倉と出会ってから、日常に少しだけスリルが混じるようになった。彼の過去は謎だらけだが、どこか安心できる不思議な存在感があった。
「今日も雨ですね」と、私がカフェのドアを開けて入ると、朝倉は窓際の席で既にコーヒーを飲んでいた。彼は私に気づくと、軽く手を挙げて微笑んだ。その笑顔は、どこか影を秘めているようで、私はつい見入ってしまう。
「遅かったね」彼は静かに言った。
「ごめん、傘が壊れてさ。途中でコンビニに寄って新しいの買ったんだ」私は席に滑り込みながら、冗談めかして言った。
「君らしいな」朝倉は小さく笑った。
そんな何気ない会話が、私には心地よかった。だが、その平穏は突然破られることになる。
カフェの外で、甲高い悲鳴が響いた。店内の客たちが一斉に窓の外を見た。私は反射的に立ち上がり、朝倉もすぐに後を追った。店の外では、若い女性が道端にしゃがみ込んで泣いていた。その前には、倒れて動かない中年男性。周囲には人だかりができ始めていた。
私は慌てて女性に駆け寄った。「大丈夫ですか?」
女性は震えながら「父が……急に倒れて……」と涙声で言った。私はすぐに救急車を呼ぶよう、近くの人に頼んだ。朝倉は、倒れた男性のそばにしゃがみ込んで様子を見ていた。その手つきは妙に落ち着いていて、私は内心驚いた。
「脈が弱い。意識は……」朝倉は低い声でつぶやいた。
私は自分の無力さを感じながらも、女性の背中をさすり続けた。やがて救急車のサイレンが近づき、救急隊員が男性を運び出した。私はほっと息をついたが、朝倉の顔を見ると、彼は何かを考え込むような表情をしていた。
「どうしたの?」私は小声で尋ねた。
「いや、何でもない」朝倉は視線を逸らした。
その後、警察が現場検証を始めた。私は事情聴取を受けることになり、朝倉と並んで警察官の質問に答えた。「何か不審な人物を見かけませんでしたか?」と聞かれたが、私は首を振るしかなかった。
だが、朝倉は一瞬だけ表情を曇らせた。「……あの男、見覚えがある気がする」と呟いた。警察官が「どの男ですか?」と尋ねると、朝倉は人混みの中に消えていく黒いジャケットの男を指差した。
私はその時、朝倉の目が普段とは違う鋭さを帯びていることに気づいた。まるで何かを追い詰める獣のような、冷たい光。その一瞬、私は彼の中に隠された何かを感じた。
事件は突然に起きた。だが、その裏には、私がまだ知らない別の物語が隠れている気がした。朝倉の過去、彼の視線の先にあるもの。それが何なのか、私はまだ知る由もなかった。
カフェに戻ると、朝倉は何事もなかったかのようにコーヒーを飲み干した。「こういう時、君はどうする?」
私は少し考えてから答えた。「困っている人がいれば、助ける。それだけだよ」
朝倉は静かに頷いた。「君は強いな」
私は照れ隠しに笑った。「ただのおせっかいだよ」
その時、朝倉の目がほんの一瞬だけ、優しく微笑んだ。だが、その奥には消えない影があった。事件は突然に起きる。だが、誰かの過去もまた、突然に顔を出すのかもしれない。私はそんな予感を抱きながら、窓の外の雨を見つめていた。
第4章 ふたりの奇妙な捜査
事件が起きて数日。あの日の出来事は、私の中でまだ鮮明に残っている。倒れた男性の救急搬送、朝倉の鋭い視線、そして現場を離れる黒いジャケットの男。警察の捜査は進んでいるようだが、私にはどうしても引っかかる点があった。
「気になるなら、自分で確かめてみたらどうだ?」と、朝倉が言ったのは、私が事件の話をしつこく蒸し返した翌日のことだ。彼はコーヒーを飲みながら、まるで天気の話でもするように軽く言った。
「自分で……って、私が? 素人だよ?」
「警察も万能じゃない。素人の視点だからこそ気づくこともある。君は観察力があるし、何より正義感が強い」
おだてられて悪い気はしない。私は負けず嫌いだ。こうなったらやるしかない。
まずは現場のカフェに行ってみる。店員に話を聞くと、事件当日、黒いジャケットの男が何度もトイレに出入りしていたらしい。しかも、倒れた男性と何やら言い争っていたという証言も得た。私はメモ帳に走り書きをしながら、朝倉に報告した。
「やっぱりあの男、怪しいよね」
「そうだな。だが、証拠がなければただの噂話だ」
朝倉は冷静だ。だが、その目はどこか楽しげでもある。
次に、私は現場近くの防犯カメラの映像をチェックできないか考えた。もちろん、一般人が簡単に見られるものではない。だが、私は近所の商店街の知り合いに頼み、事件当日の映像を一部だけ見せてもらうことに成功した。
映像には、倒れた男性と黒いジャケットの男がカフェの外で短い口論をしている様子が映っていた。その後、男は素早くその場を離れ、周囲を気にしながら歩いていく。
「この動き、普通じゃないな」と朝倉がぽつりとつぶやく。
「やっぱりプロの目は違うね」と私が言うと、朝倉は少しだけ苦笑した。「いや、君の行動力も大したものだ」
証拠が少しずつ集まり始めると、私はどんどん熱が入ってきた。次は倒れた男性の家族に話を聞きに行く。娘さんは最初こそ警戒していたが、「父は最近、誰かに脅されていたようだ」と打ち明けてくれた。脅迫状らしきものも見せてもらうと、そこには「過去のことを喋るな」という文言があった。
「過去……?」私は思わずつぶやく。
「人は誰でも、知られたくない過去があるものだ」と朝倉が静かに言った。その声には、どこか自嘲めいた響きがあった。
私たちの捜査は、警察のそれとは違う。時に強引で、時におせっかい。だが、素人だからこそ踏み込める場所もある。朝倉はプロの観察眼で、私は人懐っこさと正義感で、少しずつ事件の真相に近づいていく。
「君はなぜ、そこまで事件にこだわる?」と朝倉が尋ねた。
「困っている人を放っておけないだけだよ。あと……なんだか、あなたと一緒にいると退屈しないから」
朝倉は珍しく声を出して笑った。その笑い声は、どこか救われるような温かさがあった。
ふたりの奇妙な捜査は、まだ始まったばかりだ。だが、私には確信があった。この事件の先に、朝倉の知られざる過去が待っていることを。私はそれを知る覚悟が、少しずつでき始めていた。
第5章 影を引きずる足音
事件の真相に近づくほど、朝倉の表情は少しずつ変わっていった。私が見てきた彼は、どこか達観したような穏やかさをまとっていたのに、最近は時折、遠くを見つめるような目をする。まるで過去のどこかに心が引き戻されているかのようだ。
私たちの素人捜査は、警察の動きと並行して進んでいた。カフェでの口論、防犯カメラに映った黒いジャケットの男、脅迫状の「過去のことを喋るな」という文言。集まった断片は、ひとつの像を結びつつあった。
その日、私は朝倉とともに事件現場の路地裏を歩いていた。雨上がりのアスファルトには、まだ水たまりが残っている。ふと、朝倉が足を止めた。彼の視線の先には、消えかけた靴跡が点々と続いていた。
「これ、事件の日のものかな?」私はしゃがみ込んで靴跡を観察した。大きめのサイズ、かかとの減り方が特徴的だ。
朝倉は無言でしゃがみ、指で靴跡の縁をなぞった。「……これは、逃げる足音だな」とぽつりと呟いた。
「逃げる足音?」
「追われる者の歩き方には、独特の癖が出る。足を引きずるように、しかし速く、振り返りながら……」
私は思わず彼を見つめた。なぜそんなことが分かるのか。だが、問いかける前に彼は立ち上がり、何事もなかったかのように歩き出した。
私の胸の中に、言い知れぬ違和感が広がる。朝倉の言動には、時折プロの捜査官とも違う、もっと危険な世界の匂いが混じるのだ。それは、事件の謎を追ううちに、彼自身の過去もまた、私の目の前に姿を現し始めている証拠だった。
「朝倉さん、あなた……どうしてそんなに詳しいの?」
私が思い切って問いかけると、彼は少しだけ歩みを止めて振り返った。「昔、似たような現場を何度も見たことがある。それだけだ」
その言葉の奥に、重い影が潜んでいる気がした。だが、彼はそれ以上語ろうとしない。
現場の端に、血痕のような赤い染みが残っていた。私は思わず息を呑む。朝倉は静かに近づき、ハンカチでそっと拭い取った。「証拠は、時に人を救いもするし、追い詰めもする」と、低い声で言う。
科学捜査の進歩で、血痕やDNA、指紋など、どんな小さな痕跡も事件解決の糸口になる。だが、同時にそれは、誰かの人生を根こそぎ暴く力も持っている。私はその事実に、初めて身震いした。
「君は、どこまで知りたい?」と朝倉が問う。
「……全部知りたい。事件のことも、あなたのことも」
私の答えに、朝倉はほんの少しだけ微笑んだ。その微笑みは、どこか諦めにも似ていた。
その夜、私は自室で事件のメモを整理していた。だが、頭の中を占めているのは朝倉のことばかりだ。彼の歩き方、話し方、時折見せる影のような表情。彼が引きずる過去は、事件の謎とどこかで繋がっているのではないか。私はそう確信し始めていた。
翌朝、警察から連絡が入った。新たな証拠が見つかったという。私はすぐに朝倉に連絡し、現場へ向かった。途中、彼と合流したとき、彼の足音がやけに重く響いていることに気づいた。
「足音が重いですね」と冗談めかして言うと、朝倉は少しだけ苦笑した。「影を引きずって歩くと、どうしてもな」
私たちの捜査は、事件の核心に迫りつつある。だが同時に、朝倉の過去というもうひとつの謎も、私の前に立ちはだかろうとしていた。影を引きずる足音が、私たちをどこへ導くのか――私は怖さと期待が入り混じった気持ちで、その行方を見つめていた。
第6章 暴かれる秘密
事件の捜査が佳境を迎える中、私の心には不安が渦巻いていた。集めた証拠と証言が一つの線となり、黒いジャケットの男の正体が明らかになりつつある。しかし、それと同時に、朝倉の態度が日に日に硬くなっていくのを感じていた。彼は私の問いかけに曖昧な微笑みでかわし、時折、遠い過去に思いを馳せるような目をしていた。
警察から新たな情報がもたらされた。倒れた男性が過去に関わっていた裏社会の事件、その証人リストの中に、朝倉遼という名前があった。私は信じられない思いでその資料を見つめた。まさか、彼が――。だが、私の中でその疑念は、確信へと変わりつつあった。
「朝倉さん、話があるの」
私は意を決して、彼を駅前の小さな公園に呼び出した。雨上がりのベンチに座る彼は、どこか覚悟を決めたような表情をしていた。
「君の顔を見れば、だいたい分かるよ」
彼は静かにそう言った。私は震える声で問いかける。
「あなたは、昔……殺し屋だったの?」
長い沈黙が流れた。朝倉はゆっくりと頷いた。
「そうだ。もう何年も前のことだが、俺は人を殺すことでしか生きられなかった時期があった」
私は息を呑んだ。信じたくなかった。だが、彼の目は真実を語っていた。
「なぜ、隠していたの?」
「君には、知られたくなかった。君の正義感や優しさに、俺の過去はふさわしくないと思ったからだ」
私は言葉を失った。頭の中で、これまでの朝倉との日々が走馬灯のように駆け巡る。彼の優しさ、冷静さ、時折見せる影の理由――すべてが繋がった瞬間だった。
「事件の黒幕は、俺の過去に関係している。あの日、カフェで倒れた男性も、かつて俺が関わった組織の人間だった。脅迫状を書いたのも、その組織の残党だ」
彼は自嘲気味に笑った。
「俺はもう、過去から逃げることはできない。君を巻き込みたくなかったが、もう遅いな」
私はしばらく黙っていた。心の中で、怒りと悲しみと、そしてどうしようもない寂しさが入り混じっていた。
「それでも……私はあなたを信じたい。あなたがどんな過去を持っていても、今のあなたを知っているから」
朝倉は驚いた顔で私を見た。私は涙をこらえながら、精一杯の笑顔を見せた。
「でも、これからは嘘はなし。全部話して。私も全部受け止めるから」
彼はゆっくりと頷いた。
「ありがとう。君にそう言ってもらえて、初めて過去が微笑んでくれた気がする」
その言葉に、私は涙が止まらなくなった。暴かれた秘密は、私たちの間に大きな壁を作った。だが、その壁を越えて、私は彼ともう一度向き合う覚悟を決めた。
過去は消えない。だが、今をどう生きるかは自分で選べる。私は朝倉の手を強く握った。彼もまた、そっと私の手を握り返してくれた。
暴かれる秘密は、終わりではなく、新しい始まりだった。
第7章 葛藤の夜明け
夜は長かった。秘密が暴かれたあの日から、私はまともに眠れなくなっていた。朝倉の過去を知ってしまったことで、私の中に渦巻く感情は複雑だった。驚き、恐れ、怒り、そして何よりも、彼を信じたいという気持ちが消えなかった。
部屋の天井を見つめながら、私は自問自答を繰り返した。正義感だけで突っ走ってきた自分が、いま、どこまで彼の過去を受け入れられるのか。殺し屋だったという事実を、軽々しく「大丈夫」と言ってしまった自分を責める気持ちもあった。だが、それでも、朝倉と過ごした日々の記憶が、私の背中を押し続けていた。
夜明け前、私は意を決して外に出た。冷たい空気が肌を刺す。三鷹の街はまだ静かで、遠くで新聞配達のバイクが走る音だけが響いていた。私は無意識のうちに、あの公園へと足を運んでいた。ベンチには、朝倉がいた。彼もまた、眠れぬ夜を過ごしていたのだろう。
「来ると思ったよ」と、朝倉は静かに言った。彼の声は、どこか安堵と諦めが混じっていた。
私は彼の隣に座り、しばらく無言で夜明けを待った。やがて、東の空が薄く明るみ始める。私は勇気を出して口を開いた。
「どうして、私に全部話してくれたの?」
「君には、嘘をつきたくなかった。君と出会って、初めて誰かに自分のすべてを知ってほしいと思ったんだ」
その言葉に、胸が熱くなった。だが同時に、私は問いかけずにはいられなかった。
「これから、どうするの? 過去からは逃げられないよ」
朝倉はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「逃げない。俺は、過去と向き合う。君に出会って、そう思えるようになった。たとえ裁かれることになっても、もう隠さない」
私は涙がこぼれそうになるのをこらえた。彼の覚悟が、私の心にも伝わってきた。
「私も、あなたと一緒にいる。どんな過去があっても、今のあなたを信じたい」
夜明けの光が、ゆっくりと二人を包み込む。長い葛藤の夜を越えて、私は初めて自分の気持ちに正直になれた気がした。
「ありがとう」と朝倉がつぶやいた。
「私こそ、ありがとう。あなたが過去と向き合う勇気をくれたから、私も自分の弱さと向き合える」
夜明けは、すべてを許すわけではない。けれど、昨日より少しだけ前を向ける気がした。私たちは並んで、静かに新しい朝を迎えた。
葛藤の夜明けは、終わりではなく、これから始まる新しい物語の合図だった。
第8章 新しい一歩
朝の光がカーテン越しに差し込む。昨夜の葛藤と涙の余韻を残したまま、私はベッドの上でしばらく天井を見つめていた。朝倉の過去を知り、私自身もまた自分の弱さや恐れと向き合った。けれど、夜明けとともに、心の奥底に小さな決意が芽生えていることに気がついた。
私はゆっくりと起き上がり、窓を開けた。新しい空気が部屋に流れ込む。世界は何も変わっていないようで、私の心だけが少しだけ軽くなっていた。携帯電話には朝倉からのメッセージが届いていた。「今日、会えますか」。短い一文に、彼の不器用な誠実さがにじんでいる。
私は「もちろん」と返信し、身支度を整えた。鏡の前で髪を整えながら、ふと自分の顔が少しだけ大人びて見える気がした。事件と向き合い、人と向き合い、自分と向き合った数日間が、私を変えたのかもしれない。
待ち合わせは、あの公園だった。ベンチに座る朝倉は、どこか落ち着いた表情をしていた。私が隣に腰掛けると、彼は静かに頭を下げた。
「改めて、今まで隠していたことを謝りたい。君を巻き込みたくなかった。でも、君がいたから、俺は過去と向き合う覚悟ができた」
私は首を振った。「私も、あなたと出会って変わった。怖かったし、悩んだけど、今はあなたと一緒に前を向きたいと思ってる」
朝倉は少し驚いたように私を見つめ、やがて穏やかに微笑んだ。その笑顔は、これまで見たどの表情よりも人間らしく、温かかった。
「これからどうする?」私は尋ねた。
「過去を清算するために、警察にすべて話すつもりだ。それが俺のけじめだと思う」
私は胸が締めつけられる思いだったが、彼の決意を尊重したいと思った。「私も、できる限りそばにいる。あなたがどんな道を選んでも」
朝倉は「ありがとう」と小さくつぶやいた。沈黙のあと、彼は少し照れたように言った。
「君と出会えて、本当によかった。もし許されるなら、これからも君と……」
私は彼の言葉を遮って、明るく笑った。「まだまだおせっかい焼くつもりだから、覚悟してよね」
朝倉は苦笑し、そしてふたりで並んで歩き出した。公園の木々の間から、春の光が優しく差し込んでいる。事件は終わったわけではないし、彼の過去が完全に消えるわけでもない。でも、私たちは確かに新しい一歩を踏み出したのだ。
歩きながら、私はふと思った。人は誰しも、過去に影を持っている。けれど、それを誰かと分かち合い、受け入れてもらえることで、初めて前に進めるのかもしれない。朝倉の手が、そっと私の手に触れる。私はその温もりをしっかりと握り返した。
「これからも、ふたりで歩いていこう」
新しい一歩。それは不安も希望もすべて抱えたままの、私たちだけの始まりだった。過去が微笑むとき、未来もまた、きっと微笑んでくれると信じている。