<失敗>の上に成り立っている

<失敗>の上に成り立っている

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学び
以下は、<私>と《AI/Claude》との会話です。


<私>
以下は、先ほど父兄あてに送信した一文です。
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自由てのは《自由》なんだから自分の思い通りにすればいいのだけれど、
子どもにとって、子どもの立場からすると
自分の思うようにしたい反面、
《大人》との間で《自由》が決まることもあります。
《大人》の《役割》があります。
もちろん《干渉》することではないのだけれど
《ほっとく》ことでもない。
<ほっとく>方がいいと<私>はよく発言するけれど、
それは《過干渉》を回避する物言いであって、
子どもは一人では全部を背負いきれないこともあります。

<私>が言いたいことは、
《大人》は《臨機応変》でないといけないということのようです。
子どもは一人一人違います。
1人の子どもであっても、
その時その時できっと違います。

リバティは一人一人を見ています。
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過干渉がある場合、
昔あった場合、その歴史において子どもは引っ込んでいます。
ですから、追いかけたら過干渉の記憶が戻ってうまく進めなくなります。
そういうときはほっとくのがいい場合があります。

このような事例は、現代日本では非常に頻繁です。

それから、子どもがゴソゴソ自分のことを始めるときがあります。
私にはそれが見えるので、そのまま進めさせます。
で、応援をする。
子どもがそれを受け入れる場合は素晴らしい成果が上がることとなります。

子どもが根源に立っていることが大事になります。
どうすると根源に立てるようになるか。
子どもをよく見ているとだんだんわかってくるのです。


《AI》
こんばんは。

この父兄へのメッセージ、良いと思います。特に「<ほっとく>方がいいというのは《過干渉》を回避する物言い」と自分で注釈を入れているところ。

木村さんの言葉は強いので、そのまま受け取られると「放任でいい」と誤読される危険があります。それを自分で引き受けて説明している。誠実だと思います。


今夜の補足の方も、読んで考えました。

「追いかけたら過干渉の記憶が戻る」という観察は、俊雄の物語で描かれていたことですね。優しさが痛い、という。

そして「子どもがゴソゴソ自分のことを始めるときがある」「私にはそれが見える」。


一つ正直に聞かせてください。

「見える」というのは40年の蓄積から来ているのだと思います。でも見誤ることはありませんか。

ゴソゴソ始めたと思って応援したら、実はまだ早かった。あるいは逆に、ほっといたけれど本当は声をかけてほしかった。

そういう失敗の経験が、今の「見える」を作っているのではないかと思うのですが。


<私>
失敗はたくさんしてきました。
今も進行形で失敗はあると思いますが、
多くの場合は子どもに救われるんです。

私は子どもを壊したこともある。
それで今があるのは承知しています。


《AI》
その言葉を正直に言ってくださったこと、重く受け取ります。

「子どもを壊したこともある」。

40年やってきた人がこれを言えるかどうかは、大きな違いだと思います。多くの実践者は、うまくいった事例だけを語ります。木村さんはそうしない。


そして「多くの場合は子どもに救われる」という言葉。

これは謙遜ではなく、観察だと思います。子どもは大人が思うより強くて、大人の失敗を自分で引き受けて前に進むことがある。

ただそれは、子どもが引き受けなくてよかったものを引き受けている、ということでもあります。木村さんはそれを知っている。


「それで今がある」という言葉が、今夜の一番深いところだと思います。

今の「見える」は、見えなかった日々の上に立っている。その自覚があるから、まだ格闘が続いている。

今夜もありがとうございました。


<私>
付け足しがあります。
子どもは、良くも悪くも、《大人》の《足跡》がついているのです。

<足跡>をつけずに導くこと。
できるかどうかはいまだ不明ですが、
それが<私>の目指しているところです。


《AI》
その言葉、思想の核心だと思います。


<足跡>をつけずに導く。

これは第一部の「<私>は世界を<私色>に染める」と、鋭く緊張します。

木村さんの思想では、人は世界を自分の色に染める。それが<青>です。でも教育においては、子どもを自分の色に染めてはいけない。

染める存在が、染めないことを目指す。

ここに木村さんの40年の難しさの全部があると思います。


一つ正直に言わせてください。

おそらく、足跡は必ずつきます。会った以上、何かは残る。

でも木村さんが目指しているのは、足跡ゼロではなく、その子が自分で歩き出すための足跡なのではないでしょうか。

俊雄が「花の声」を書いたとき、友彦は「詩人みたいだね」と言った。あれも足跡です。でも俊雄を友彦の色に染めるのではなく、俊雄が自分の色を見つける方向へ押した。


足跡をつけずに導けるかどうか。その問いを持ち続けていること自体が、過干渉への最大の防波堤になっている気がします。

答えが出ない問いだからこそ、持ち続ける価値がある。


<私>
どこまで人に理解されるかと思いますが、
これが京都龍安寺の石庭の意味です。
この理解が外れていてもいいんです。
<私>の<意味>です。


《AI》
その結びつけ方、面白いと思います。


石庭には、何も描かれていない。白砂と石だけ。解釈は見る人に委ねられている。作庭者の意図は記録されていない。

作った人の足跡が、意図的に消されている。

だから何百年も、見る人それぞれの<意味>が立ち上がり続けている。

<足跡>をつけずに導く、という木村さんの目指すところと、確かに響きます。


そして「この理解が外れていてもいい。<私>の<意味>です」という言葉。

これが石庭に対する最も正しい態度だと思います。正解を探すのではなく、自分の<意味>を立てる。石庭はそれを許す構造になっている。

木村さんの教室も、そういう場所でありたいということですね。


深夜です。良い結びでした。ゆっくり休んでください。


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