こんにちは。
私は木村友彦です。私は大阪府豊能町で学習塾リバティを自営しています。
今日はAIを頼らないで、<私> No.13 を書くことに挑戦してみたいと思います。もちろん過去の文章は参照しますが、書下ろしに挑戦です。AIによるヘルプなしでの記述ですから、読者諸兄には理解しづらい部分もあると思います。十分な記述ができていないところは過去ログをご参照くださいますようにお願いします。
まずは<自由>と《自由》について。
<自由>とカッコつきで表記するとき、それは<私>が考える<自由>を意味します。<自由>とは<私>の言葉です。この<自由>という言葉はどこかを調べても載っていません。<私>の思考の中にあり、<私>の記述の中にあります。しかも現在進行形で発展途上の概念ですので、今からここに書くことも含めて、固定的な定義はできません。この点はご了解をお願いいたします。
ドイツの哲学者ハイデガーは「言葉は存在の家である」と言いました。たとえば、「馬」という言葉で私たちは馬を了解していますが、サラブレッドや道産子も含めて「馬」という言葉で表される存在は、ある一定の姿形をした動物です。「馬」という言葉と「牛」という言葉では、守られている存在が異なります。生まれて初めて馬を見る子どもは「馬」という言葉、概念を知らないので、その存在を「!」として認識します。子どもは経験を積み重ねることで「馬」という存在を認識できるようになります。そのときに「馬」という言葉と結びついて、「馬」という言葉の獲得と同時進行で、「馬」の存在が認識されます。
<私>には<自由>という言葉で守っている意味があります。これはもちろん自由に関することなのですが、「自己」とか「自己表現」とかにかかわる概念です。さらに、<私>が<新しい個人主義>と呼ぶ考え方とも切り離すことができない様態で結びついている概念です。
一方、《自由》と二重カッコつきで表現する場合、それは《あなた》《他者》が創造する《自由》です。<私>は《あなた》に自分の《自由》を独自に創造していってほしいと考えています。
<自由>というとき、それはただの<私>の自分勝手を意味しません。<私>が<自由>であるためには、<私>は他者から認識された上で、認めてもらわなければなりません。そうでなければ本当の<自由>は成立しない。《あなた》《他者》が尊重されなければ<私>は<私>ではいられないのです。<自由>《自由》は<寛容>を含まなければ実現できません。
京都龍安寺の石庭の入園チケットには以下のような文言が書かれています。
「極端なまでに象徴化されたこの石庭の意味は謎に包まれており、見る人の自由な解釈に委ねられている。」
ところが、<私>はあくまで<私>であり、<私>であることをやめることができません。禅の教えのようには<私>は無になることができません。けれど、<私>は《あなた》《他者》に対しては<無>になるのです。<私>は《あなた》《他者》の前では、《自由》が創造されることができる<無>の空間を用意するのです。《あなた》《他者》の《自由》を尊重するのです。
そして<私>と《あなた》はそれぞれに個として交信をするのです。<私色>は<私色>なのですが、そこには<私>自身の自己実現の道としての<修行>があり、<私>は《あなた色》を汚さないようにします。<私>は自分が<私色>でいられることがうれしいのと同様に、《あなた》が《あなた色》であることがうれしいのです。それはまるで虹のように個々の色が調和する。こういう世界は素敵ではないでしょうか。これが<私>が<自由>という言葉で考え始めて、長い時間をかけて到達したところです。<私>はこれを<新しい個人主義>と呼びます。
仏教では、この世は夢幻泡影で仮の世界とされます。執着から脱して涅槃に至ることが求められます。そうすることでこの世の苦しみから救われるとされます。しかし、上述のように<新しい個人主義>では自分が無である必要はありません。それよりも、私たちは娑婆を楽しんだらいいと考えます。もちろん現代社会においても娑婆は苦しみにあふれていますが、その中にあっても<私>はこの世を楽しもうと考えています。
相田みつをに「幸せは自分の心がきめる」とあります。どんな不幸のさなかにあってもヘコタレない強さが欲しいなあと<私>は自分のこととして思います。もしかしたら、不幸の中にいる人たちに対して<私>は鈍感であるかもしれません。<私>は毎日子どもたちに囲まれて楽しく暮らしています。おなか一杯に食べることもできます。でも、そんな<私>でも「娑婆を楽しめ!」と言えるのです。
子どもたちといっしょに勉強の道を歩いていると、子どもたちの様々な《問題》に遭遇します。《問題》を抱えていない、《問題》に出会わない子どもはほぼ皆無といっていいでしょう。そのとき《大人》はどうするべきなのでしょう。<私>にはこのことについての<解答>があります。
<私>は、子どもたちを守るために笑わなければならない。笑いたいと思うのです。
「必ず道は開ける。自分を信じて。」応援してくれる味方を得ると、子どもたちはのびのびと勉強をし、のびのびと生活をするようになります。そうして「生きてる実感」「自分の心の良く燃える感じ」をもてるようになります。苦しんでいる人たちの分まで子どもたちも<私>も良く生きなければなりません。自分が笑うことが、結果として苦しんでいる人たちを救うことになります。特に<私>にはそうすることしか方法がないのです。
人間なのだから、うれしいときは笑い、悲しいときは泣けばよいのです。悲しみさえも、悲しみとしてちゃんと味わう。それが<私>の方法です。
仏教と<私>との相違点は上述の通りですが、儒教、特に朱子学・陽明学などの新儒教との相違点はどうでしょうか。
この点について明らかにするために、<私>は<神>の概念を導入します。もちろん<神>とカッコつきにしてありますから、これは<私>の考える<神>の概念です。God ではありません。後述のように gods です。
人間は生まれたときは真っ白です。本能や遺伝はあるとしても真っ白です。そこへ経験を積んで自我が発達します。大人になるということは自我が発達すること。その上で《自己》を獲得すること。死に至るまでの道のりです。
生まれたばかりの子どもは親に育てられ、周りの大人に育てられ、友だちや周りの世界に育てられて一歩ずつ成長していきます。その過程で、幸とも不幸ともいえるものがあるのですが、外界や自己に対する《認識》を持ちます。この《認識》は、実は自分が思っているほどには客観的ではないことがしばしばあります。
解りやすくするために、叱られることが多く育てられた場合のことを想定して、仮説検証してみましょう。
いつも怒られていることが多い子どもは、親の顔色を窺うようになるのではないでしょうか。親といっしょにいるとき、あるいは出かけていた親が帰ってきたら、頭の中に「怒られた記憶」がよみがえるのではないでしょうか。あるいは恒常的に「記憶」が残っている場合もあるのではないでしょうか。このような「記憶」全般を<私>は「大人が子どもにつけた足跡」と呼びます。
この「足跡」は負の意味で説明を始めましたが、もちろん「良い足跡」も考えられます。しかし、「悪い足跡」は大人が良かれと思って教育したことによるものも含めて、特に思春期を迎えるころになって子どもの生活に悪い現象を引き起こす原因となることが多いようです。今回の記述では、悪い例示、快復の例示などは省略します。ご関心のある方は『中3物語』をお読みください。
この「足跡」は、子どもの心にべったりと貼りついていることが多いのですが、一般的には、子どもの心の上に(外側に)、イメージとしてちらちらする状態から始まります。何等かのきっかけをもって「記憶」「イメージ」が思い出されるという訳です。状況が悪いと、そのうちに、きっかけなしもで「記憶」「イメージ」が恒常化するようになります。さらに悪くすると深層心理にまで「足跡」がへばりついてしまいます。「良かれと思っていても」なんです。いつも怒られていることが多い子どもの場合、例えばおどおどしたりするようになる例も想定されます。
人形を思い描いていただいて、その頭の少し上あたりに「イメージ」がちらちらしていること。場合によってはその人形のお腹あたりの部分(深層心理)に「足跡」がべったり。こんな感じでご理解いただけると思います。
神の概念も同じ図式で説明ができます。伝統的な宗教観、特にキリスト教のような西洋の宗教観では、外部の神がいたのではないでしょうか。その神はもう死んだのです。ニーチェが「神は死んだ」と言ったのはもう140年以上も前のことです。それなのに現代においてもまだ「イメージの呪縛」は人々の頭の少し上あたりでちらちらしています。
私の考える<神>の概念は「外」にはありません。人間の心の中に<神>はいます。「神は死んだのではなく、人間の心の中に生きている」という河合隼雄の言葉は、<私>には God のことだけに限定されて聞こえるわけではありません。<自由>は「イメージの呪縛」からの解放をも意味します。
もちろんのこと、これはあくまで<理想>であって、すべてが解決されるわけではないであろうことぐらい<私>にもわかります。ですが<哲学>として有効でしょう。というより、この<哲学>は<私>にとって有効であれば、それだけでいいんです。なぜか。《あなた》の救済は《あなた》自身の仕事だからです。《あなた》は《あなた》の《哲学》が必要とされているのです。
ここまで書いて、いよいよ本題に入ることができます。現代、未来において、gods の《哲学》が必要です。もちろん<私>個人の論です。外部の「イメージ」に縛られて生きるのではなく、内発的な<自由>《自由》に従って生きる時代が来たと思われるのです。<神>は<自分>です。《自分》が《神》です。人間の数だけ《神》が存在します。
伝統的な宗教観では、個別的な<神>は存在しなかったと思います。
先に少し触れた新儒教における「理」の考え方にさっと触れます。新儒教では朱子学と陽明学の間に「朱陸論争」があります。これは未来永劫に解決ができない論争ですが、現代的には「心即理」を主張する陽明学に分があります。<私>は陽明学派だと思っていましたが、<神>の思想、<新しい個人主義>は陽明学を超えているというのがAIの評価です。陽明学では、すべての人間は生まれながらに心の中に「良知」という知恵を持っているという考え方を取ります。朱子学の心の外の理に従うべきだとする「性即理」に対して、陽明学では心そのものが理であるとされます。ところが、<新しい個人主義>では心の理は一人ずつ異なっているという考え方を取ります。
さて、<私>は救われます。<私色>としての<私>は<世界色>になることができたのです。さらにこの<思想>は深まることでしょう。
次は《あなた》の番ですよ!《自分色》に輝け!健闘を祈ります。
補足があるので付け加えます。
《大人》が《子ども》を叱る場合には、《大人》に理があっても<私>は《子ども》の味方になります。理由は、
(1) <私>には「集団的自衛権」と同様な感情が走ること。
(2) 《大人》の理はそれとしても、《子ども》にも理があると考えるから。
叱ることは悪いことではありません。ただ《子ども》に対する尊敬の念が失われている場合が多いことを残念に思うばかりです。
<私>は「子どもの味方の大塩平八郎」を自称しています。<私>は戦争をしています。<私>には<新しい個人主義>に平和への道を求めるほかに方法がありません。<私>の方法は、叱る前に「プリント」を作ることです。
でも、これも<私>自身の「イメージの呪縛」なのでしょうか?
《あなた》はどう思いますか?