まずは、長いけれど以下をお読みいただきたい。
これは2018年に私が書いたブログです。
2018年8月1日
学習塾リバティ 木村友彦
中3物語/
自分不調症の苦しみ
教室で仕事の準備をしていて、手洗いに立ち、ふと廊下を見ると床に1匹の小さなガが落ちていた。家の中に、アリとかクモとか何でも虫を見つけると、つぶさずに、可能な限り表に出すのが私の習癖。それで今度もガを外に出すことを思ったけれど、あまりに弱っていたので、水をやった。そうしたら飲んだのである。歩き出し羽を動かすのだ。ほっとして、これどうしようかなと思ったとき。何が起こったか、ガは動くのをやめた。死んでしまったのである。ショック死だったかもしれない。
「戦に、行き倒れ、病に飢え」(宮崎駿原作・監督『もののけ姫』)は、現在も地球上からなくなっていない。普段はいつも忘れているが、思い出すと少々募金したくらいでは気持ちが落ち着かない。「四苦八苦」という言葉は、もともとは仏教の言い方で、世の苦しみを分類したことに始まるらしい。「苦しみ」は決してなくならない。
「自分不調症」というのは私の言葉である。定義するのは難しいから、あえて定義しないけど、多くの子どもたちは「夏休みの宿題が多い」とか言いながらも、その宿題をしなければならないと思う自分に苦しむ。ある意味で驚きだが、宿題をサボり倒せるほどに強い?子はまずいない。
子どもを育てるためには、「大人はときには不退転の決意で臨まなければならないときもある」のは確かなのだけれど、今はあまりに多くの大人が「不退転」に過ぎるのではないか。子どもの方にばかりに変わることを求めすぎるのではないか。そんなふうにしているうちに子どもは「自分不調症」になってしまう。「自分」を忘れて、「自分」を持てず、子どもは何か「外にあるもの」を使って自分で自分を縛るようにもなるのかもしれない。(チヤホヤと甘やかすことを言っているのではない。ちゃんとご承知いただいていると思う。だけど、ちょっと心配だったりもする。)
新幹線の中で鉈(なた)を振り回した人。街に防犯カメラがあふれている現在。周りにジェントルな人がいなかっただけなのかもしれない。みくだす。みくびる。高をくくる。大人が子どもに対してそんなことばかりをしていると、世の中大変なことになってしまうのではないか。本当は子どもは、自分で自分のことを考えることができるはずである。自分で考えることのできる子どもを育てなければならないと思う。大人は、子どもに対してもっとジェントルでなければならないと思う。「本当の意味」のジェントルさを考えていきたいと思う。私は性善説の正攻法でいく。
「自分不調症」。克服すると、喜びにあふれた社会性のあるすてきな人生が待っている。「苦しみ」はだれにとっても決してなくならない。だが、よりよく生きるのがいい。知っている人にしか分からないけれど、『もののけ姫』の主人公アシタカはそうしていたと思う。私もそうしたい。そして、子どもたちみんなにももちろんそうしてほしいと思うのだ。
ここからは現在の記述です。
まずはこの図をご覧ください。
《「外にあるもの」を使って自分で自分を縛る 》の図です。私が見てきた子どもたちについて「自分不調症」の事例は様々です。何か失敗したイメージに縛られている場合。かーちゃんにいつも怒られていたイメージが残っている場合。その他、例えば「おどおどしちゃう場合」や「恐妻家」なんかもこんな感じで理解できると思います。
子どもたちに「理」を伝えることは大事です。「勉強」させることはもちろん大事です。でも、気をつけてくださいね。
時代は《 探究 》の世の中を迎えようとしています。
弊ブログ「背景がバラ色」やその他も合わせてご一読ください。
次の図は「重症」の場合です。
「知識先行」「理 先行」できてしまった子どもたちによく見られる感じ。特に、小さいお子さんを育てているご家庭では、今が大事な時期です。
繰り返します。
時代は《 探究 》の世の中を迎えようとしています。
大人も子どもも
「自分の中」から出てくるものを大切に生きてください。
以下は、2022年3月のブログです。私自身が「自分不調症」から抜け出したころの記述です。
谷川俊太郎の言葉を借りて、ここに「処方箋」を示します。
2022年3月27日
学習塾リバティ 木村友彦
中3物語/
「生きてる実感」は神様の贈り物やン笑
子どもたちに囲まれて仕事をしている。なんて幸せだろう。子どもと私は並列で、子どもも私も同じ地平に立って喜びを感じてる。子どもが感じてる喜び。私が感じてる喜びをお伝えしたい。谷川俊太郎の言葉を借りることにする。
<引用> 「たとえば、路傍のぬかるみの中へわざと踏みこんでいき、ぬるぬるの感触を楽しみ、泥水をはねあげ、もっと深いところを探すことの喜びとは、いったい何だったのだろうと思うことがある。今ではたとえ長靴をはいていたとしても、私はぬかるみを避けて、かたい地面を探す。
だが子どもは、ぬかるみを見れば当然のようにその方へ突進し、飽くことがない。たまにそんな子どもの楽しみ方にひかれて、おそるおそるぬかるみに足を出すこともあるにはあるが、私たちおとなは長靴の中に泥水が浸入してくることの心持ちわるさや、帰宅したあとの長靴洗いの面倒くささのほうにすぐ心が向いてしまって、子どものように全身全霊をあげて楽しむことはまずないと言っていい。」 ( 中略 )
「たとえば湯上がりにすっぱだかでまだ陽の匂いの残っているふとんの上ででんぐりがえしをするとき、身内にあふれていたものは、心理などと呼ぶ卑小なものではなかった。」<引用終>
谷川俊太郎『「ん」まであるく』/P.84 理由なき喜び より
どきん 谷川俊太郎
さわってみようかなあ つるつる
おしてみようかなあ ゆらゆら
もすこしおそうかなあ ぐらぐら
もいちどおそうかあ がらがら
たおれちゃったよなあ えへへ
いんりょくかんじるねえ みしみし
ちきゅうはまわってるう ぐいぐい
かぜもふいてるよお そよそよ
あるきはじめたかあ ひたひた
だれかがふりむいた! どきん