死というものが自分には訪れないと思い込んでる人へ

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コラム
私は過去に2度、死にかけている。しかも半年の間に2度もだ。今日も追われて殺されそうになる夢を見た。3年前の悪夢の3日間をまた思い出した。
ああそうだ、あの暗殺者集団が私を殺そうと町から町へ追いまわした、あの悪夢の3日間だ。皆さんは本気で死にそうになったことはあるだろうか?本気で殺されそうになったことがあるだろうか?死は他人には訪れるが、自分には訪れないと思い込んでいるだろうか?あなたにも、当たり前に死は訪れる。
九死に一生を得て、自分は死の恐怖に打ち勝ったと思い込んでる人もいるかもしれない。たとえば、圧倒的に強い相手との殺し合いのケンカで勝ったとか、戦場で弾丸の雨荒らしの中、生還した兵士。あるいはロッククライミングで断崖絶壁を登攀中に手を滑らかし落ちたが、運よくまた掴まれた、とか。
だが、そういう一時の窮地に追い込まれ体験より、もっと残酷なことがある、それが飢餓と貧困だ。これは魂の殺人、希望が永続的に奪われる。しかも、九死に一生を得た体験のように、物語化して語ることすらもできない、ただただ虚しく苦しいだけの単なる絶望なのだ。「ああ、あの恐ろしい体験を乗り越えたから、今の俺がある。温かいシャワーを浴びてフカフカのお布団で寝られる、それだけでも嬉しい」なんて言ったりする。でも、ホームレスの人らは、それすらできない。何かを乗り越えて快適な日常に戻る、ということができないのだ。毎日が、ただひたすら絶望なのだ。
私は暗殺者集団に3日3晩、命を狙われ続けた。私は知らない町でスマホもなく、自分の位置もわからない、財布には数千円しかない、10分、15分休むことすらできない、誰も頼りにできないという人生史上最も絶望的な状況に追い込まれた。人は死に追いやられたとき、神を信じていないなら神に祈ったりしない。ただ単に「助けてくれ」「死にたくない」「嫌だ嫌だ嫌だ」と思うだけだ。なぜ自分が死ななければならないのか、なぜ自分がこのような状況に合わされているのか、それを考えることも無く、ただ、ひたすら死ぬのが怖い、死ぬのが嫌だと考えるだけだ。そんなものは全ての生物が持っている生存本能からくる感情だ。今まではゲームでしか死の恐怖を疑似体験できなかったが、「リアル鬼ごっこ」を地で行くような体験をした私は強烈な死の恐怖を味わったのだ。特に絶望的だったのが、バイクがオーバーヒートして、動かなくなってしまったときだ(翌日には復活したが)。とぼとぼと歩いて、工事現場の土砂の盛り土の上で眠ったあの日の夜は忘れられない。
はじまりは5~6台のセスナ機、あれに一晩中追いまわされた。しかも上空からは高周波パルス兵器の照射、米軍がベネズエラ兵に使用した最新の指向性エネルギー兵器の一種だろう。私はランボーではないので、セスナ機の編隊に追われてるという、ありえない現実だけで、気が気ではなかった。
あの5~6台のセスナ機を24時間動員するのに、いったいどれだけの予算が割かれたのか見当もつかないが、少なくとも数千万円は使用されたはずだ。
2日目からは、それに何十台の車、バイク、も加わった。すべて私を殺すために動員された暗殺者集団たちだ。
神が私に罰を与えて、その心を変えさせるために、あの暗殺者集団をよこしたのだ、実際、あの暗殺者集団は、私を1週間以内に暗殺できれば大金を手にできたに違いない、私には懸賞金がかけられていたに違いないのだ。だから、あんなに必死だった。そして私は死んだ。あの時の私は死んだのだ。死ななければならなかった、新しい私が、生きるために。


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