神に愛され、神に守られている者は、ダニエルや、その友人たちのように火の中に放り込まれても死なず、獅子の穴に放り込まれても獅子が襲い掛からず死ぬことがなかった。
しかし一方で、神に愛され、神に守られている者であっても死ぬときは死ぬ。
イエスもイエスの弟子たちも(ヨハネ一人を除き)悪魔の僕たちによって処刑されました。パウロも、最後は処刑されました(推測だが)。
死ぬべき時、死ぬべきさだめというものが、それぞれにあるということ。そしてそれは決して、終わりでもなく、敗北でもなく、意味のある死であるということを私は言わなければならない。
彼らは死ななければならなかった。命と引き換えにしてでも信仰を守らなければならなかった、だからこそ、悪魔の僕により処刑されるというインパクトのある死で、一般大衆に深い印象を残す必要があった。
もし、彼らが普通に信仰を守って、普通に年を取って老衰で死にましたという最期であったなら、ほとんど誰の記憶にも残らない、名前が歴史に残ることも無い、そういうことでは神の意志に反するから、正しいことをして、正しいことを言って、この世を去った。
人間は、いや人間に限らず生物は、いずれ必ず死ぬ。必ず死ぬのだが、どのような生き方をしたかが大事なのだ。その生きざまを神様に見られているのだから、命根性汚く、這いずり回って生きたところで、結局のところ、いつまでもこの世に留まっていられるわけではないのだ。だからこそ、この世において与えられた時間を無駄にしてはならない。
ステファノという助祭は、イエスを処刑台へと追いやり、まくしたてた大衆の非を責めたため、石打ちの刑に処された。石打ちって、今でいえばリンチみたいなものですよ、とても公式の処刑方法とは思えない、無残で残酷な処刑方法です、周りをぐるっと取り囲んで何人もの人間が石をぶっつけて殺すなんてヤクザの処刑方みたいでしょ。ステファノは死ぬ間際に、「主よ、私の霊をお受けください」と言って死んだそうです。そしてイエスと同じように「彼らの罪を許してください」とも言いました。つまり、イエスの弟子は、だいたいが、イエスと同じように死んでいったのです。この時点で神と同等のレベルにまで魂があげられました。イエスも、終盤にイエスの弟子たちに対し、「これからはあなたたちのことを、しもべではなく、友と呼ぶ。」と言いましたので、この時点で神と同格となったと思います。
この世で魂の修業と浄化をして、また神のもとに帰る、そういう魂の旅なんですよ、人生と言うのはね。だから、どのように生きたか、その生き方が問われるわけですよ。私も3年前に2度ほど死にかけてますからね、今、生きてるのは神の奇跡ですよ。3度目は、本当に死ぬ時かもしれません。