形式的な祈りには意味がない

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よく、一般人が、「お天道様が見ているからな」とか、「神の恵みに感謝だな」とか、すごい軽い感じで言いますよね。あとは、手を合わせて、いただきますとか言って、命を頂いているんだ、とか、よくわからん神妙なセリフを言って、いかにも自分は、まともな人間であると、自らを錯覚させてそれを免罪符にしようとしている人たちがいます。
正直言って、こんなもん免罪符の切れっぱしにもなりゃしませんよ。やらんほうがマシかもしれません、うすら寒いんで。
私は、このような上っ面だけ整えた行為こそが、まさに偽善であると断言したいですね。偽善は、プラスの行為ではなくむしろマイナスな行為なので、やらんほうがいいというわけです。
あまり神を舐めるなということです。これらの行為を行うことこそが、まさに神を怒らせ、疲れさせているのだと、自覚しているのでしょうか?もし、本当に存在する神に対して、このような軽々しい言葉と行為を捧げているのだとしたら、完全にずれているとしか言いようがありません。もし、神が本当に存在すると心の底から信じるのであれば、祈りの言葉も心の底から言わなければならないのだし、そうでないなら、それは神に対する冒涜となります。
私のように、聖書を完読して、さらにその意味合いをも理解して、さらに自らの心をまともにしていこうという心構えがあってこそ、祈りの言葉も意味があるのですよ、あなた方は、心を神に見られていないと思っている。だから、そういう、上っ面の偽善の祈りができるのですよ、しかも、誰も頼んでもいないのにですよ?おかしくないですか、頼んでもいないのに、上辺だけの祈りの言葉をつぶやいて、なんだか人間ができているような気がする、みたいな振る舞いをするのは!?これはプラスポイントにならない、むしろマイナスポイントになるので、神に感謝もしてないし、そもそも神などいないのだ、と思っているのなら、そのように振舞えばいいじゃないですか、何をカッコつけて、信心深いふりをしているのですか。
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