♡やさしいキスをして
六月の終わり、雨がやんだばかりの夕暮れだった。
濡れたアスファルトが街灯のオレンジ色を吸い込んで、世界がぼんやりとにじんでいる。空気はまだたっぷりと水を含んでいて、息を吸うたびに肺の奥がひんやりと湿った。風が止んでいた。街路樹の葉から雫がひとつ落ちて、水たまりに小さな波紋をつくった。その音だけが、やけに近くに聞こえた。
莉子は、閉じた傘の先で足元のタイルの目地をなぞりながら、隣に立つ人の気配を肌で聴いていた。
瀬尾彰人。同じ出版社の、ひとつ上の先輩。いつも穏やかで、誰に対しても変わらないやさしさを持つ人。だからこそ莉子は、そのやさしさの中に自分だけの特別を見つけることができずにいた。
「――雨、止んだね」
彰人がぽつりと言った。その声は低く静かで、雨上がりの空気によく溶けた。莉子は「うん」とだけ返して、唇をかすかに噛んだ。今日、ふたりで遅くまで残って校了作業をしたのは偶然だった。帰り道が同じ方向なのも、前から知っていた。けれど、こうして並んで歩くのは初めてのことで、莉子の心臓は、自分でも呆れるほど騒がしかった。
駅までの道を、ゆっくり歩いた。
会話はぽつぽつと続いては途切れ、途切れてはまた静かに始まった。好きな本の話。学生時代のこと。くだらない映画の感想。どれも取り留めのない話ばかりだったけれど、言葉のひとつひとつが胸の奥にやわらかく沈んでいくのを莉子は感じていた。彰人の横顔を盗み見るたび、鎖骨のあたりがきゅうと甘く痛んだ。
「莉子さんは」
不意に名前を呼ばれて、心臓が跳ねた。
「——好きな人とか、いるの」
足が止まった。雨粒の残る紫陽花が、街灯の光の中でぼうっと青く浮かんでいた。莉子は呼吸を忘れた。指先が冷たくなるのがわかった。顔を上げると、彰人がこちらを見ていた。いつもの穏やかな目ではなかった。その瞳の奥に、かすかな揺れがあった。
ああ、この人も怖いのだ、と莉子は思った。
いつも涼しい顔をして、誰にでもやさしくて、何も求めていないように見えるこの人も、今、答えを待って息を止めている。その事実が、莉子の胸を内側から押し広げるようにあたためた。
「……います」
声がかすれた。恥ずかしさで耳の先まで熱くなるのを感じながら、それでも莉子は彰人の目を見つめ続けた。
「今、隣にいます」
沈黙が降りた。長い沈黙だった。けれどそれは気まずいものではなく、何かがゆっくりと形を変えていくような、祈りにも似た静けさだった。
彰人が一歩、近づいた。
雨上がりの湿った風が頬を撫でたとき、彰人の手が莉子の手に触れた。指先が最初にふれて、それからゆっくりと指が絡められていく。その手はわずかに汗ばんでいて、そのことが莉子をひどく安心させた。完璧ではないこの人の、ほんとうの温度に触れている。そう思った瞬間、視界がにじんだ。
「ずっと——」
彰人の声がわずかに震えていた。
「ずっと、こうしたかった」
莉子は繋がれた手にそっと力を込めた。泣きそうだった。嬉しいのに泣きそうで、泣きたいのに笑ってしまいそうで、感情の名前がわからなかった。ただ胸の奥が熱くて、その熱が指先を通じて相手に伝わっていくのがわかった。
彰人のもう片方の手が、莉子の頬に触れた。濡れた睫毛のすぐ近くを、親指がそっとなぞった。
「泣かないで」
「泣いてない」
嘘だった。もう頬は濡れていた。けれど彰人は笑って、その笑い方があまりにもやさしくて、莉子はもう何も言えなくなった。
「——やさしいキスをして」
それは莉子の口から自然にこぼれた言葉だった。自分で言ったことに驚いて、けれど撤回する気にはなれなかった。
彰人は何も言わなかった。ただ静かに顔を近づけて、莉子のまぶたに唇を落とした。涙のしずくごと、吸い取るように。それはほんのわずかな時間だったけれど、莉子には永遠のように思えた。
目を開けると、彰人が泣きそうな顔で笑っていた。
「……もう一回、していい?」
莉子は涙のまま笑って、小さくうなずいた。
雨上がりの街に、風が戻りはじめていた。紫陽花が揺れて、水滴がきらきらと光の粒になって散った。どこか遠くで電車の音がして、世界はいつも通りに動いている。けれどこの数歩分の距離の中だけ、時間はやわらかく止まっていた。
ふたつの影が重なるその場所だけが、今夜いちばんあたたかかった。