私は今まで数学の内容でブログを書いてきたのですが、どんどん時間がかかるようになってきたので (昨日の
は5時間くらい) 、戦略変更して共同体における習慣の役割についての考察です。
習慣と聞くと、よくある啓蒙書のテーマというくらいの話に思えるかもしれません。
実際、「習慣の力」や「複利で伸びる1つの習慣」などでは個人が習慣をどのようにして利用するのかという話題が載っています。
ただ、同じ話をしても面白くないので共同体における習慣というものがどういうものなのかを考えてみたいと思います。
(これ以降の話はテロルの現象学を参考にしてそれっぽく書いてるだけです。)
共同体は最初、血縁関係を根拠にしてスタートするのでしょう。
(例えば、旧約聖書では人物の紹介の度に延々とその血縁関係が述べられています。)
そして、その共同体と他の共同体との差異というものがはっきり分かるようになってくるとそのアイデンティティが体系化されて宗教に変化するのではないでしょうか。
「複利で伸びる1つの習慣」の中に「社会規範への誘惑」という節があります。
宗教が規定する良さ、悪さがそこに所属する人間の行動を決定し、そのような周りの人間の様子が自らの行動を決定するという形で、これは共同体の習慣へと変化していくのです。
そしてこのような習慣の集まりがその共同体の日常と呼べるようになった時、宗教を法律へと進化させるのではないでしょうか。
実際、法律とは (それこそモーセの十戒のように) これをせよ、あれはするな というように日常とそれ以外を区別している線引きとして解釈することもできるでしょう。
そして、ここで登場した日常以外はルドルフ・オットー風に言えば「聖なるもの」ということになるのでしょうが、それはさらに「戦慄するもの」と「魅するもの」へと分化していきます。
「戦慄するもの」とはいわゆる穢であって「魅するもの」とはそれを管理する能力を持った存在なのだと思っています。
(例えば、医者が偉いのは穢たる病気の管理能力を持っているから という説明は納得できるものがあるのではないでしょうか。)
そして、この「魅するもの」として大きな力を持った存在が王として国を成立させるのではないではないかと考えています。
つまり、
習慣とは単なる啓蒙書のテーマの一つなどではなく、国が成立するための根拠になるのではないか。
というお話でした。