どもです(-ω-)皆さまいかがお過ごしでしょうか?
疑問に思っていた聖句の靄(もや)が晴れたのでこちらで報告します。
うまくまとまってないかも。長いです^^;ゆっくりとどうぞ。
今の私の立場と注意事項 24.12.1(日)
アルミニウス主義(人の自由と神の恵みの調和)です。(下で説明してます)
ただ、背教はないという立場でもあります。(ヨハネ14:18、2コリント1.22)
マルティン・ルター、カルヴァン主義の【神の権威を強く主張】とは違います。
(地獄に行く人を選ぶ、神の愛の矛盾に違和感を感じます)
ルター派、カルヴァン派に対抗するではありません。
あくまで私が聖書から導かれた(ただのキリスト者のブログ)であることをご理解ください。
信仰・教派の違いを議論するつもりもございませんm(_ _)m ご了承くださいませ。
注意
それぞれの神学、立場により信仰や考えが違うのを前提としてお読みください。
最近は分からないことがあると、あいまい検索が強いChat GPTを使います。(`・ω・´)そして牧師に相談します。
本当に生成AIは便利で感謝!です。イエス様ありがとう(*^^*)
でもハルシネーション(AIの間違い)もあるので注意が必要です。
使う前に祈りが必要ですね(気づき
気になる聖句
なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。
神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認められた人々にはさらに栄光をお与えになりました。
ローマ8章29~30
強めに牧師は(自分の信仰や立場を守るため?)
この聖句のポイントである【あらかじめ知っておられる、あらかじめ定めた】
という所で【これは予知だ】と言います。
それはカルヴァン主義の【予定説】に対するアルミニウスの【自由意志説】の主張だと思います。
アルミニウス主義(自由意思説)
人間は罪によって堕落しているが、神の恩恵を受け入れる自由意志を持っている。
予知(よち)
前もって知ること。神は全ての人の行く先を知っている(天国・地獄)
予定説(よていせつ)カルヴァン主義・カルビニズムとも言う。
個人の救済や滅亡はあらかじめ神により定められており、人間の意志や能力によるものではないとする説。これは予知(全知全能)を超え、さらに神の主権(選び)を主張します。
父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。どうか、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。1ペテロ1章2節・聖書
この聖句は神は誰が天国に行くのか知っているので(予知)その人を終わりの日まで守ってくださるという事です。私もこれは信じております。
それはいいのですが。
疑問に思っていた神の愛(信仰不足?)
神はさばきの結果である地獄に行く人も知っています。
なぜ神様はその人を助けないのか、と思いました。
いかにも人間的な疑問です。
(この問いには抜けている点がありと気づきました。創造主なる神は愛と正義であられるお方です)
ふと聖句が出てきました。
天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。マタイの福音書5.45節(実は敵を愛しなさいの後の聖句でした。)
確かに人には(制限はあるが)自由が与えられています。
何を信じるか、信じないか。自己中に生きるのか、神(造り主)を求めるのか。自由と愛はセットだと思います。
自由に何をしていようとも、一方的な愛の恵みを神は注ぎ続けることを(この世で)表している聖句だなと感じました。
ちなみに一方的に神が【救われる人救われない人を選ぶ】考え方(カルヴァン、ルター)は差別的だなと個人的に感じます。
この話はまた別の記事に気が向いたら書きます。
結論
・神はすべての人の選択をあらかじめ知っています。全知全能。
(詩篇 139:1-4、ヨハネによる福音書 2:24-25、ヨハネの黙示録 22:13)
・人の選択がどうあれ、善人にも悪人にも愛を注ぎ続けます。
(マタイの福音書 5:44-45、ローマ人への手紙 5:8)
・神は一貫して、善・正義・誠であられ、愛の方であられ、すべての出来事に報いを与えます。
(詩篇25.8、ヤコブの手紙 1:17、ローマ2.6、ヨハネ3.16、へブル4.13)
滅ぶ人も知っておられる。
でも人の自由を尊重する。
永遠の昔から愛(忍耐、正義、正しさ)であられるお方。
滅ぶのを知っているのに(悲しみながら?)愛を注ぎ続けるという、人には理解できない究極の愛と正義を実行されるお方。
人間的な理解の愛(滅びるのに何で愛するの?)を完全に超えている【神の愛】をすこし知れた気がしました。
ふぅ。。。助け主であられる聖霊様が教えてくださったのだと思います。
原点、イエスキリストの十字架の理解をもっともっと学べば教えてくださることなのかな、と感じます。
実は今日も学びがあったんですよ。
分かち合い(礼拝後の昼拝)でおなかの悶絶な苦しみを体験した姉妹の話の中で聖句も出ました。
人の心は病苦をも忍ぶ。しかし、ひしがれた心にだれが耐えるだろうか。
こんな体の壮絶な苦しみは【心の苦しみ】よりもましなのかなと。
だからこそクリスチャン(キリスト者)であってよかったと。
死後の復活、罪の赦し、神の愛、あなたを見捨てない。
すべてALL(オール)揃っているのですから。
希望、まさに心の平安。
私たちの国籍は天にあり!(パウロの書簡より
そこで感じたのはキリストは【心と体】両方の苦しみを背負われたと。
・心(想像もできない全人類の罪を負われた)
・体(公開処刑、むち打ち、嘲笑)
そして私達と同じ、人となられたからこそ苦しみも共感してくださる。
私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。へブル4章15節
なんという愛でしょうか。なんという忍耐でしょうか。
神の憐れみ。愛。それを少し知れたお話でした。
助け主、救い主、主イエスキリストの御名を心より褒めたたえます、ハレルヤ!
ではではノシ