—『疲労社会』を読みながら、SNS時代の苦しさについて考えたこと
こんばんわ、れいです
「なぜ今の時代、真面目にやっている人ほど消耗してしまうのか」
ビョンチョル・ハンの『疲労社会』という本を読んでいて
相談の場で感じてきたことと、すごく重なるところがあって。
今日はその話を書いてみようと思います。
苦しくなっている人は、必ずしも「できない人」じゃない。
むしろ逆で、ちゃんとしてきた人、応えてきた人、気を配ってきた人ほど、あるところで深く疲れてしまうことがある。
応えようとするのだから、それは疲れる、というのはあたりまえなことなのかもしれませんね。
ただ、この本では、その応えようとすること、できること、が、
どんどん社会のなかの暗黙の前提として、仕組化、されてしまっている。
そういうようなことが書いてあります。
本当はつらい。
本当はもう限界に近い。
でも、その気持ちをそのまま出す前に、
「私がもっとちゃんとすればいいのかも」
「こんなことでしんどいと思う自分が弱いのかも」
「相手にも事情があるし」
「まだできるはず」
と、自分で自分にブレーキをかけてしまう。
そしてそのうちに、自分が何を感じているのかさえ、よくわからなくなっていく。
真面目な人が消耗するのは、できないからじゃない。
できていた自分が"先"にあったからこそ、苦しくなることがある。
まず、そのことを書いておきたかったんです。
『疲労社会』を読んで見えてきたのは、この苦しさって、単にその人の性格の問題じゃないということで。
この本が描いているのは、誰かに強く命令される社会じゃなく
「もっとできる」
「もっと応えられる」
「もっとよい自分になれる」
という圧力を、自分の内側に抱え込んでしまう社会です。
昔みたいに外から「これはダメ」と言われるだけなら、まだ相手の理不尽さも見えやすい。
でも今は、そうじゃない。
表向きには自由です。やりたいことをやっていい。自分らしく生きていい。もっと挑戦していい。
一見すると、息苦しさとは反対の言葉ばかり。
でも、その「いい」が積み重なると、いつのまにか "できるのが前提"の社会 になっていく。
SNSは、その空気をとても強くします。
開けば、誰かが生き生きと暮らしている。仕事も、恋愛も、人間関係も、充実しているように見える。
朝活、運動、勉強、美容、自己表現。
それぞれの場で、それぞれの人が「できている」ように見える。
見えているものがすべてじゃない。それはわかってる。
でも、毎日そういう光景に触れていると、感覚のほうが変わっていくんですよね。
「ちゃんとやれていること」が、普通のこと、前提のこととして感じられるようになっていく。
すると、うまくいかないとき、”まず”自分を責めやすくなる。
私が足りないのではないか。
もっと努力できるのではないか。
もっとうまく伝えられるのではないか。
こうして問題は、どんどん自分の内側に引き取られていくんです。
もうひとつ、相談を受けていて気になることがあって。
SNSで発信することに慣れると、自分の気持ちを「伝わりやすい形」に整えることも、だんだん上手くなっていく。
本当はぐちゃぐちゃに苦しい。
でも、そのままでは出しにくい。
だから少し整える。わかりやすい言葉にする。重すぎない形にする。
そうしているうちに、ほんとうの気持ちより、"説明しやすい自分"のほうが前に出てくるようになる。
でも、本当の気持ちって、そんなにきれいじゃないんですよね。
矛盾していたり、幼かったり、怒っていたり、みっともなかったりする。
最初から筋の通った言葉にはならないものだと思う。
だから、出口はさらにうまく説明できるようになることだけじゃないと思っていて。
ほんとうに必要なのは、
受け入れやすい説明をしなくても、いられる場所。
きれいに話せなくてもいい。
結論が出ていなくてもいい
矛盾したままでもいい。
そういう場所があるとき、人は少しずつ、自分の気持ちに戻っていける気がするんです。
占いも、本来はそういう時間であっていいと思っています。
ただ未来を当てるためだけでも、正解をもらうためだけでもなく、自分でもうまく言葉にならなかったものに触れ直すための時間。
ちゃんとしてきた人ほど、疲れてしまう。
できていた人ほど、自分を追い込みやすい。
そしてSNSは、その構造を静かに強めてしまうことがある。
だからこそ今必要なのは、さらに自分を整えることじゃなくて、
整えすぎなくてもいい場所を持つこと
なのかもしれない。