自己開示 Vol.④ フリーター時代 ~母の死~

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こんばんは☆ たかです(^^)

いつもブログを読みに来てくださり
ありがとうございます♪


今回も昨日に引き続き
自己開示シリーズになります

自己開示4回目は
『フリーター時代 ~母の死~』
について書こうと思います


前回の自己開示3回目『専門学校時代』
も読んで頂けると嬉しいです😌



⁡この辺からは段々とあまり人に話したくない
見せたくない内容になっていきます

専門学校を卒業後は就職せずに
自転車便の仕事をメインに
焼肉屋、チラシ配り、工場での仕事
タクシーの洗車など
色んなバイトを経験しました
そして空いてる時間はバスケをしていました
SNSやインターネットでチームを探し
色んな場所へバスケができる環境を求めて行きました
大きな足首の怪我や膝の故障もありましたが
それでも上手くなりたい
自分が納得のいくプレーがしたい
と必死に練習しました⁡


この時期はますます自分は何者なのか
将来何がしたいのかがわからなくなっていました
⁡なぜならバスケでご飯を食べていける
というレベルではなかったからです


好きなバスケができる時間があったのは
よかったのですが

金銭的な余裕がないことや
大きなケガでこれ以上バスケを続けるのは
困難な状況になっていきました

自転車便の仕事は空き時間が結構ありました
その時間に大型書店へ行き
自己啓発系の本をひたすら立ち読みしました

でも、本を読むだけで満足し
行動に移さなかったので
何一つ現状は変わりませんでした⁡


そんな中、母親の体に異変が起きました
はじめは夏バテかなと皆思っていたのですが
血液検査をすると肝臓の数値が
正常から大きく逸脱していました
そして検査の結果
すい臓がんの末期で肝転移しており
余命3ヶ月と告げられました
当時21歳の僕は年齢以上に幼く無知でした

医学の知識も全くありませんでした
それまで元気だった母親が急に病気になり
何が起こっているのか理解できませんでした
今まで母親と向き合って話したことが
ほとんどなかったことや

病状がどんどん悪くなっていき
変わっていく母の姿を見て
何を話していいのかもわかりませんでした
わかることは
どんどん痩せていくこと
顔や身体がどんどん黄色くなっていくこと
酸素の投与量が少しずつ増えていってること
⁡それぐらいでした



そんな状態になってもまだ僕は
母が死ぬことを受け入れられませんでした
そして最期のときは訪れました


最期は従姉妹たちが病室を出たあと
母と僕と父の3人の時でした

母の側で泣き崩れる僕に後ろからそっと
肩に手を置いてくれた看護師さんがいました
そこに言葉はありませんでした

言葉は何も要りませんでした
顔も見えないし、誰かもわからない
ただ肩に手の温かさだけがありました⁡。

母親に対しての後悔と
この時の看護師さんの対応(手)
がきっかけで

僕の中に『看護師になる』という
選択肢が生まれました


*⁡
母の死をきっかけに
地元の仲良しだった友人達と
再びつながることができました
それは僕にとってすごく大きなことでした
その友人の中の1人が
オーストラリアに留学していて
友人と2人で1週間オーストラリアに
旅行に行きました。22歳の時です
アリススプリングスの空港に到着し
大地に足を踏み入れ
空気を胸いっぱい吸い込んだ時に


『ここは自分の場所だ』と思いました
⁡⁡
突然の母の死

何もできなかった母への後悔から
絶望の淵に立たされていた僕にとって


オーストラリアは大きな希望を
与えてくれました。⁡
この時はまだ自分が
『社交不安障害』になるなんて
思ってもいませんでしたし

そんな言葉も知りませんでした。
⁡*


今日はこの辺で終わります(^^)
⁡次の記事では
自己開示Vol.⑤オーストラリア時代
について書こうと思っています♪
ご感想などありましたら
ぜひメッセージ頂けると励みになります🤗


最後まで読んでくださり
ありがとうございました😌
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