「余暇と労働」学習院女子大学国際文化交流学部学校推薦

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(1)問題


次の文章を読み、課題一。課題二に答えなさい。
① 余暇とは、いったい何でしょうか。私自身の考えをのべる前に、その昔、中世のスコラ学者が授業をするときにやっていた方法にならって、まず一つの反対論を登場させてみましょう。
② 「いま、われわれは家を建てている最中だ。その仕事で手一杯だから、余暇についてまでは、とにかくそれに全力をかたむけることが必要なのではないのか」
③ これは手ごわい反対論です。しかし、こまかい議論は後回しにして話している暇はない。家ができあがる、さしあたりこう答えたいと思います。
④ 「文化を打ちたてるということは、ただ最低生活を維持し、ぎりぎり必要なものをみたすということだけではなく、精神的な資産を建てなおすということも意味しているとしたら――もしそうであるとしたら、まさのその新たな出発、基礎工事をはじめるにあたって、余暇の意味をはっきりさせておくことこそが必要なのです。
⑤ なぜかといえば、余暇は西洋文化を支えている基礎の一つにほかならないからです。余暇を文化の基礎として考えることを意外に感じる人もあるかもしれません。しかし、これは西洋哲学の古典中の古典であるアリストテレスの『形而上学』ですでにいわれていることなのです。
⑥ また「余暇」(ドイツ語ではMuBe)という語源をさぐってみると、余暇と文化のつながりをはっきりと見てとれます。余暇はギリシア語ではスコレー、ラテン語ではスコーラ、ドイツ語ではシューレ(学校)となります。つまりドイツ人が教養、あるいは人格形成の場をさすのに用いている言葉自体が、余暇を意味しているのです。シユーレとは、知識をつめこんでばかりいる場所のことではなく、本当は「余暇」のことなのです。
⑦ もちろん、現在のように徹底的に組織化された労働管理社会では、こうした余暇の本来の意味に目が向けられることはありません。だから、余暇の本質を見抜くためにはある程度の骨折りは覚悟しなければなりません。というのも、現代は労働というものを過大に評価する時代だからです。
⑧ 「ひとはただ生きるために働くのではなく、むしろ働くために生きているのだ」という格言があります。だれでも、すぐさまその通りだ、と納得するのではないでしょうか。実際、この格言はいまの社会通念をよく言いあらわしています.しかし、なかなかわかっていただけないかもしれませんが、この格言では物事の在り方や価値が完全にひっくりかえっているのです。
⑨ もう一つ格言があります。「われわれは余暇をめあてに働くのだ」
⑩ この言葉に対して現代人はどう反応するでしょうか。だれでもすぐに、この言葉はさかさまの、ひっくりかえった価値秩序をじつに正確に言いあらわしている、と言うことでしょう。労働こそ最高に価値あるものだ、というたてまえの生活している人間にとっては、この言葉は何か不道徳なもの、人間社会の根本原則にそむくもの、とうつらざるをえないのではないでしょうか。
⑪ ところで、この言葉は問題をはっきりさせるために私が勝手につくりあげた格言ではありません。まさにアリストテレスその人が、かつて実際に言ったことなのです。あのさめた人、徹底的に実務家タイプのリアリストといわれているアリストテレスの言葉であるだけに、このことは特別の重みをもっています。
⑫ 付け加えて言いますと、原語を文字通り訳すると「われわれは暇をもつために暇なしである」となります。「暇なし」とはギリシア語では週日(労働日)の仕事そのものを指す言葉で、たんにそこでの「気ぜわしさ」を意味するだけではありません。
⑬ 面白いのは、ギリシア語では週日のれっきとした「仕事」を指す言葉がなく、ただ「暇なし」(スコレー<暇>と否定を意味するアを結びつけた「アスコリア」)という否定形があるだけだという事実です。ラテン語でもこの事を意味するネゴティウム(英語のネゴシエィションはここからきています)は、オティゥム<暇>の否定形なのです。
⑭ アリストテレスは、右に引用した言葉のほかに『政治学』の中で、「余暇がものごとのかなめであり、すべてはそれを中心に回転している」とものべています。これらの言葉は、まるで当然のことを言っているかのような調子で語られています。どうもそのことから推察すると、「労働のための労働」という現代の格言は、ギリシア人にとってはまったく理解できないものではなかろうか、と思われるのです。
⑮ 逆に、われわれの側からいえば、余暇というものの本来の意味が、もはやわれわれにはまったく理解できないものに変わってしまったのだ、という事情も明らかになったのではないでしょうか。
⑯ ここでつぎのように反論する人がでてくるにちがいありません。
⑰ 「いったい、本当のところ、われわれとアリストテレスの間にどんな係わりがあるというのか。古代の世界を賛美するのはかまわないが、どうしてわれわれがそんなことにしばられなくてはならないのか」
⑱ この反対論に対してはつぎの点を指摘しましょう。キリスト教の精神生活の理想とされている「コンテンプラチオ」(日常生活のあらゆる心づかいや関心をはなれ、小さな自我をぬけでることによって、世界をあるがままにながめ、その創り主にふれること)は、アリストテレスの余暇の思想にまでさかのぼるものです。
⑲ またつぎのことも指摘できるでしょう。こんにちの大学教育で重要な位置をかのぼるものなのです。
⑳ 「だが、そんしめている教養学科(もともと自由(リベ)な(ラル)学芸(アーツ) arts riberalesと呼ばれ、「奴隷的技術」 arts serviles  から区別された)という考え方もアリストテレスにさな区別に興味をもつのは歴史家だけだ」という新しい反対論が考えられます。それに対しては、次のように言いかえすことができるでしょう。「この区別がはっきりしないことがまさしく現代の問題なのだ」と。
21 今日「奴隷的」という言葉を聞くと、だれでもはっきりとしたイメージを描くことができます。キリスト教国ではいまでも「日曜日には奴隷的労働をしてはならない」という考え方が生きています。しかし、正確にいって「奴隷的労働」が何を意味するかを知るためには、それを「リベラル・アーツ」と対立させてみることが必要なのです。つまり、ここの場合の「自由(リベラル)」とはどういう意味なのか、はっきりとつかむ必要があるにもかかわらず、まさにその点が現代において曖昧(あいまい)になっています。しかし「自由学芸」についてはあらためてのべることにしましょう。
22 右にのべたことで、アリストテレスと現代との結びつきが、すこしは明らかになったのではないでしょうか。しかし、史的な指摘がどうであれ、だからわれわれはこうしなければならないというものではありません。それはいうまでもないことです。
23 さしあたり私が言いたかったのは、労働や余暇について現代の私たちが下している評価と古代や中世の人々にとってあたりまえとされていた労働や余暇についての評価、この二者の間には天と地ほどのちがいがあるということなのです。ちがいがあまりに大きいために、昔の人が「われわれは余暇をめあてに働くのだ」と語るのを聞いても、いったい何を言っているのか、すぐにはわからないようになってしまったのです。それは今日、だれかが「私は休暇を楽しみに働いている」というのとは、意味がまったくちがうのです。(後略)
(ヨゼフ・ピーパー(稲垣良典訳『余暇と祝祭』講談社学芸文庫 一九八八年)

課題一 本文の内容を一五〇字〜二〇〇字で要約しなさい。
課題二 傍線部「さしあたり私が言いたかったのは、労働や余暇について現代の私たちが下している評価と古代や中世の人々にとってあたりまえとされていた労働や余暇についての評価、この二者の間には天と地ほどのちがいがあるということなのです。」と筆者は述べていますが、あなたはこれについてどのように考えますか。例をあげて四五〇字〜六〇〇字で述べなさい。

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(2)解答例


問1
労働を過大に評価する現代には、働くために生きているのだという社会通念がある。しかし西洋の古代・中世では余暇をめあてに働くと考えられていた。余暇には自由に学芸を学び宗教活動を行った。こうした余暇が西洋文化の基礎となった。このように労働や余暇についての現代の評価と古代・中世の評価の間には大きなちがいがある。(152字)

問2の解答例はOK小論文を受講された希望者に配布します。



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