「日本人における責任の観念」静岡大学人文社会科学学部後期2017年

記事
学び

(1)問題


「責任をとる」方法について書かれた次の問題文を読み,設問に答えなさい。

筆者のホセ・ヨンパルト氏は,スペインで生まれ,日本の大学で長年教えた,法学者である。なお,問題文を記載するにあたっては,原文を一部改めた。

[問題文]

①  個人ばかりではなく,国や文化の違いによって責任の感じ方,責任のとり方も変ってくる。行動に対して責任をもつということは,人間に限ったことであり,人間の一つの特徴でもある。たとえそれぞれの国によって文化が異なるにしても,人びとはそれぞれに責任を感じるものである。ただ繰り返すが,責任の感じ方,とり方が,必ずしも同じであるとは限らない。むしろ場合によっては,全く違うケースもあるように見える。

②  1976年に,外国のある法哲学者の著書の翻訳が日本で出版されたときのことである。監訳者(注1)A氏は,その「凡例(はんれい)(注2)」のなかで,「邦訳(ほうやく)(注3)」上の不備な点は,私Aの責任である」と明記した。西洋人の目から見れば,この監訳者の責任感はまことに感心すべきであるが,その反面,果たしてその他の協力者には責任がないのか,または協力者が自分で責任をとれないのかという疑問が残る。悪く言えば,彼らは不当に責任を免除されているとも考えられるのである。

③  これとは対照的に,次の年すなわち1977年,刑法学者・法哲学者としてよく知られている,アルトゥール・カウフマンが当時の西ドイツで編著(へんちょ)(注4)を出したが,その序論には,「本書の執筆者は各自の寄稿に関して一切の学問的責任を負う」ことが明記されてあった。ほとんど同時に両書を入手した筆者は,(1)この責任のとり方の違いにため息が出るほどであった。

④  しかしよく考えてみると,日本では洋書を分担して邦訳する企画ではすでに親分・子分

の関係があり,親分(監訳者)の責任が重くなるのは当然でもある。日本の社会は集団社会(集団共同体)であるが,政党と同じく,必ず一人のリーダーまたは「主人」があり,その影響力で各グループのメンバーもつながっている。したがって,その人が,普通のメンバーよりも重い責任を負うのは当然である。それに対して,ドイツのような個人主義の国では,各個人に責任を負わせるのが,合理的であろう。

⑤  第二次世界大戦後,日本ではいわゆる東京裁判が開かれ,幾人かの戦争犯罪者(注5)の責任が追及された。しかし,その後は戦争犯罪者を訴えたり,その責任を追及したりすることは一切なかったし,考えられないことでもあった。一方,ドイツでは,ニュルンベルグ裁判が行なわれたが,今でも戦争犯罪者が発見されれば,その責任は徹底的に追及される。さらに1979年,ナチス殺人犯罪の時効(注6)が廃止されたことによって,その責任は永久に訴追できるようになったのである。

⑥  このように日本とドイツの戦争犯罪者の責任に対する態度はまるで異なるが,それには

何らかの理由または原因があるはずである。この著しい相違はけっして偶然のことではない。思うに責任成立の一つの条件である「第三者」(誰に対して責任を負うか)を次のように考えれば,その相違の原因は明らかになる。日本の場合,普通の人が責任を自覚するのは,神にではなく,他人,所属グループ,社会全体,他の国の人びと,つまり,他の人間とその組織に対してである。しかし第二次世界大戦後,戦前の日本の政権および国家と社会体制が完全に姿を消したため,このような責任感も消されてしまった。もう「第三者」はいないからである。

⑦  実はドイツの場合も,日本と同じく戦前の政権および国家と社会体制は完全に姿を消したが,戦争犯罪の責任における「第三者」の意識は完全に消えることはなかった。これは,当時その国で制定された新憲法(ボン基本法)の前文を読めば,すぐ分かる。日本国憲法の場合なら考えられないことだが,この前文は次の言葉で始まる。「神(God)および人間(Menschen)に対する責任を自覚し,……この……基本法を決定した」。これは,おそらくその国における長いキリスト教の影響の結果であろうが,責任はまず神に対して,次に人間に対してと自覚される点が日本とは決定的な相違点である。そして,神は永遠に変わることがない「第三者」であることを考えれば,政権や国家・社会体制が完全に変わっても,責任意識は消えないのも容易に理解されよう。

⑧  昔からキリスト教の影響を受けた諸国では,人間は窮極的(きゅうきょくてき)に(意識的,または無意識的に)神に対して責任を負っているという考え方がある。西洋の文化が「罪の文化」と呼ばれる所以(ゆえん)はここにあり,日本の「恥の文化」と比較されるところでもある(ルース・べネディクト著,長谷川松治訳『菊と刀」,社会思想社)。日本の場合は,神(少なくとも「人格神(注7)」personal Godとしての)の意識というものはないので,責任とは「他人に対して」,または「社会に対して」,あるいはもっと正確に言えば,自分が属している「集団社会に対して」負うものと理解される。和辻哲郎が説明したように(『倫理学』上,岩波書店),倫理は間柄に基くものであるから,もし人間が社会のなかに存在するのでなければ,倫理とか責任とかの問題はもちろん生じない。キリスト教の影響を受ける以前のヨーロッパの倫理が,日本の伝統的な倫理によく似ていることは注目に値するところである。アリストテレスによれば,「善き生活」はポリス(当時の社会ないし都市国家)において初めて可能となり,ポリスにおいて人間が形成される。というのは「人間は本性上,社会的動物である」からである。ところがキリスト教は,人間の社会的な次元をもちろん否定はしなかったが,人間の目的は神にあるとしたので,人間の道徳もこの次元から考察されることになった。

⑨  要するに,(2)責任というものは「自分に対するものとして」のみ考えるならば,理解され得ない。そして責任の前提にされる「自分以外の者」とは,他人または社会だけであるのか,それとも神をも含むのかによって二つの異なる責任感が出てくるわけである。

(中略)

⑩  ロベール・J・バロンが1978年に著した『日本型ビジネスの研究』(プレジデント社)のなかには,日本人にとって「日本人である」ということはどういうことかが説明されている。この説明は日本人にとってというよりも,外国人の目でみた日本人の説明であるかも知れないが,ここで少し参照してみたいと思う。

⑪  バロンによれば,日本人には二つの面があると言う。第一の面は,「日本人はただ日本人だけである」ということ,わかりやすく言えば,例えばドイツ人の場合は,ドイツ人としてばかりでなく,ヨーロッパ人あるいは西洋人として考えることができるが,日本人の場合それができないということである。第二の面は,日本人はいつもほかの日本人と一緒だということ」である。そして,第二の面は,「日本人は日本にいなければならないということ」である。

⑫  この見解は,中根千枝によってすでに提唱された,「場」による集団と「ウチの者」「ヨソの者」の理論を参考にすると,当然のことであろう。というのは,中根氏が指摘したように,「複数の場への所属」は日本人にとっては不可能だからである。日本では確かに『ウチ』『ヨソ』の意識が強く,この感覚が尖鋭化してくると,まるで『ウチ』の者以外は人間ではなくなってしまうと思われるほどの極端な人間関係のコントラスト(注8)が,同じ社会にみられるようになる。このようなコントラストは,コントラストであると同時に,すべての人間の「同量エネルギーの原理」をも証明しているだろう。つまり,「ウチ」の者だけを考え過ぎる結果,「ウチの者以外は人間にあらず」ということになり,このような所属感が強ければ強いほど,関係のない者に対する関心はゼロに近くなる傾向になるということである。日本人の責任の感じ方,とり方のユニークさの根源も,この所属意識に求められるべきであろう。

(中略)

⑬  欧米では,酔っぱらうという行為は道徳的にも社会的にも厳しく非難される。教員が一度でも酔っぱらえば大問題になるだろう。ところが日本ではそうでないらしい。特に面白いと思うのは,「集団酩酊(めいてい)(注9)」という現象である。お酒があまり好きでない人でも,仕事の関係などでこのような席に加わらなければならない時は,他の人と同じように酔っぱらう義務を感じる。なぜなら,全員が酔っぱらうという状態になって初めて,その団体の一致が完成するからである。断固,お酒を拒めば,「仲間」ではなくなり,「余所者(よそもの)」になってしまう。これは社交上うまくないばかりでなく,「集団社会倫理」にも反することになる。むろん皆がするのだから,悪いこととは考えられるはずもない。

⑭  このように日本では,「所属感」というものが強く意識されているので,「仲間」に対しての責任感も非常に強い。その反面,「余所者」に対しての責任感はゼロである。数十年前,四ツ谷駅麹町出口の近くで,若い男の人が女性を殴るという事件があった。殴られたあげく,女性は倒れてしまった。そして,その男は車に乗って現場を立ち去ってしまった。人通りの多い場所なので,あっという間に百人以上の弥次馬が集まったが,この暴力行為を止めようとする者も,倒れた女性を助け起そうとする者も一人もいなかった。目撃者たちは,その二人とは何の関係もなかったので,何らの義務も感じなかったのであろう。ところが――これは筆者が聞いた実例であるが――Aという会社で,ある社員が突然,上司に暴力をふるった。その途端,周囲にいた人びとばかりでなく,隣りの部署にいた社員までがとんできて直ちに制止にかかったということがあった(本人は数日後に,もちろん責任をとって退職願を出した)。同じような暴力行為であっても,この場合は現場の目撃者でなかった社員までが暴力を止めさせる義務を感じたらしい。日本人は,内輪の問題になると責任を感ずるようになり,真面目さと強靭(きょうじん)(注10)さという特性を発揮する。

(中略)

⑮  さて,日本人に比べて,西洋人は自分で,つまり個人として積極的に行動し,責任を感じると言われている。前に挙げた四ツ谷駅の見て見ぬふりは,ヨーロッパではまず考えられない。筆者はドイツに留学中,一度,街で交通事故を目撃した。その場に居合せた,1人のドイツ人は,被害者となった運転手に,「私はいまの事故を見ていました。だから,証言できます」というようなことを言って名刺を渡した。もっともこういう奇特なことはヨーロッパでもむしろ例外であり,ヨーロッパ人である筆者も驚いたのだが,日本の場合は,事故が起って裁判となり,目撃者に証言を頼んでも,大体において断わられる。自分に関係のない面倒沙汰には巻き込まれたくないし,証言することによって正しかった人を助けようとする義務も感じない。もちろん関係がある人のことなら,話は別である。

⑯  責任感という視点から考えてみると,日本人は集団の中で,または一定の集団に属するものとして非常に強い責任を感じ,積極性とバイタリティー(注11)とを発揮する。したがって相沢久が述べているように,「『わたしは一人でいるとき最も強い』(シラー)という句は日本人には当てはまらない」(『日本人論のために』,潮出版社)のである。しかし,そうだとすれば,外国人の場合,個人として責任を感じ,バイタリティーを発揮するということはどのように説明されるのであろうか。もし,外国人は別の種類の人間だと答えるならば,それ以上,説明を求める必要はないであろう。しかし,このような簡単な説明だけでは,この問題は解決され得ないと思う。引き続いてもう一度,外国人の責任の感じ方を課題にしよう。

⑰  外国人の場合にも,日本人のように責任感を発揮する全く同じメカニズム(注12)があると思うが,このメカニズムを理解するためには,前に問題にした「自分以外の者」ということを再び参考にしなければならない。

⑱  外国人は,所属感や義理人情などよりも,もっと「合理的な」動機に左右されることが多いと言われている。しかし責任の問題に関しては,この説明では不十分である。なぜなら,責任を感じる場合,必ず誰に対してという「自分以外の者」が登場するが,キリスト教文化の国では,意識的に,または無意識的に,神がその「自分以外の者」となるからである。しかもキリスト教的な考え方では,教会というグループ意識があるばかりでなく,すべての人は神に属し,兄弟であるという意識もある。だから,他人を全く無関係の人として見過すことはできない。結局,この場合でも,一定の所属感が働いているわけである。このように考えると,日本人の特性や,他の民族との相違点が出てくるのは,日本人が全く異なった人間であるからではなく,その国の文化や歴史的な条件が異なっているためであることが分かるであろう。

(出典)ホセ・ヨンパルト『道徳的・法的責任の三つの条件』(成文堂,2005年),86-101頁

(注1)監訳者:複数の協力者が参加して翻訳をする場合の監督役。

(注2)凡例:書物の冒頭に記された編集方針など。

(注3)邦訳:外国語の文章を日本語の文章に訳すこと。

(注4)編著:自らが編集者と執筆者を兼ねた書籍。複数の執筆者がいることが前提となる。

(注5)戦争犯罪者:戦争に関する法に違反した者。

(注6)時効:一定の期間が過ぎたことで,権利や責任が消滅すること。

(注7)人格神:固有の知性と意志をそなえた神。

(注8)コントラスト:対比,差異。

(注9)酪酎:酒を飲んでひどく酔うこと。

(注10)強靭:強くて,耐久力があること。

(注上)バイタリティー:活力。

(注12)メカニズム」:行動や思考の仕組み。

[設問]

問1 太字(1)について,「この責任のとり方の違い」とはどのようなことか。本文で述べられているところを150字以内で説明せよ。

問2 太字(2)について,自分に対するものとしてのみ考えると責任というものが理解され得ないのはなぜか。本文で述べられているところを100字以内で説明せよ。

問3 下線部(3)について,日本人と他国の人の責任感に関する特性の共通点・相違点として本文で述べられていることを踏まえたうえで,日本人の責任感に対する筆者の分析についての自身の考え方を600字以内で述べなさい。

(2)考え方


問1

以下の文章をまとめる。

②1976年に,外国のある法哲学者の著書の翻訳が日本で出版されたときのことである。監訳者(注1)A氏は,その「凡例(はんれい)(注2)」のなかで,「邦訳(ほうやく)(注3)」上の不備な点は,私Aの責任である」と明記した。西洋人の目から見れば,この監訳者の責任感はまことに感心すべきであるが,その反面,果たしてその他の協力者には責任がないのか,または協力者が自分で責任をとれないのかという疑問が残る。悪く言えば,彼らは不当に責任を免除されているとも考えられるのである。

③  これとは対照的に,次の年すなわち1977年,刑法学者・法哲学者としてよく知られている,アルトゥール・カウフマンが当時の西ドイツで編著(へんちょ)(注4)を出したが,その序論には,「本書の執筆者は各自の寄稿に関して一切の学問的責任を負う」ことが明記されてあった。

問2

・「第三者」に対して責任を負う(責任成立の一つの条件である「第三者」⑥)

・キリスト教国では責任はまず神に対して,次に人間に対してと自覚される⑦

・日本では人格神の意識はないので、責任は自分が属している集団に対して負うものと理解される。(日本の場合は,神(少なくとも「人格神」personal Godとしての)の意識というものはないので,責任とは「他人に対して」,または「社会に対して」,あるいはもっと正確に言えば,自分が属している「集団社会に対して」負うものと理解される。⑧)

問3

●日本人の二つの面

①    第一の面:

・「日本人はただ日本人だけである」ということ

・ドイツ人の場合は,ドイツ人としてばかりでなく,ヨーロッパ人あるいは西洋人として考えることができるが,日本人の場合それができない

②    第二の面

・日本人はいつもほかの日本人と一緒だということ」⇒集団主義

・「日本人は日本にいなければならないということ」⇒「島国根性」=視野の狭窄(きょうさく)

)

●中根千枝の論点

・「複数の場への所属」は日本人にとっては不可能。

・『ウチ』『ヨソ』の意識が強い。極端な人間関係のコントラスト。

・「ウチ」の者だけを考え過ぎる結果,「ウチの者以外は人間にあらず」ということになり,このような所属感が強ければ強いほど,関係のない者に対する関心はゼロに近くなる傾向になる。

・日本人の責任の感じ方,とり方のユニークさの根源も,この所属意識に求められる。

⇒日本人は狭いムラ社会に対してのみ責任を感じる。

●日本人と他国人との共通点

 ・「第三者」に対して責任を感じる。

●日本人と他国人との相違点

 ・西洋では責任はまず神に対して,次に人間に対してと自覚される

 ・日本の場合は,神の意識というものはないので,責任とは他人や社会に対し
  て,もっと正確に言えば,自分が属している「集団社会に対して」負うもの
  と理解される

(3)解答例


問1

日本では著書の翻訳を出版する際に邦訳上の不備を監訳者のA氏が責任を負うと「凡例」のなかで明記し、その他の協力者には責任を免除されているのに対し, 西ドイツでは編著者カウフマンが序論で本書の執筆者は各自の寄稿に関して一切の学問的責任を負うと明記し、編著者には責任が及ばないとする責任のとり方の違い。(147字)

問2

キリスト教国では責任はまず神に対して,次に人間に対してと自覚される。一方、日本では人格神の意識はないので、責任は自分が属している集団に対して負うものと理解される。いずれも第三者に対して責任を負うから。(100字)

問3

 他者に対する責任感の有無は公共空間の成立と密接に関係すると考える。

 欧米ではキリスト教の拡がりにより、普遍的な公共空間が成立した。こうした拡がりのなかで理念としての神の前の平等がヨーロッパ世界に浸透した。これに市民革命による人権意識の尊重が加わって、普遍的な公共意識が育まれた。神と他者に対する尊重と責任の自覚はこのような背景の下、欧米におけるリーガルマインドを形成した。

 日本は欧米のような世界宗教や市民革命の伝統はなく、公共意識は異なるものとなった。明治維新後の近代化は国家主導で為されたこともあり、国家と公共が直接結びつくこととなった。さらに「家」制度や高度経済成長期に形成された終身雇用や企業内組合といった日本型経営は、公共を狭い企業内に留める結果となり、個人の責任意識も家族や会社という帰属集団に向けられることとなった。

 日本人が比較的遵法精神が高いとされている反面、公共空間における他者への無関心という矛盾した面がみられるのは、公共が国家に収斂される歴史的経緯によるものである。

 リーガルマインドは単なる遵法精神に留まらない。国家による強制力によらず、個人の自律的な人権意識に基づく公共空間における他者への配慮という利他的行為を含むものである。私は貴学で法の支配や人権を深く学ぶことで、日本人に欠けている公共心を身に着け、リーガルマインドの涵養に励みたい。(599字)

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