【異文化体験の意義】国際・外国語学部小論文の解法/第6回

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(1)異文化体験とイノベーション(技術革新)


この「国際・外国語学部小論文」の講座では、一貫して伝統や固有の文化に対して懐疑の精神を持て、ということを繰り返し述べている。

考えてみれば、日本固有の文化と言われている仏教は6世紀に百済から伝来されたものである。

神道は、仏教に対抗して鎌倉時代に理論化された。

山や海などの自然を信仰の対象として仰いでいたものが、仏教の伝来によって、寺院に対抗して神社や御神体が作られた。

さらには、日本古来の神は新たに伝来した仏と習合して、江戸時代までの民間信仰を支えた。

このように、日本文化と呼ばれるものは、大陸から伝来した新しい文化としばしば融合してさらなる文化の発展をもたらしたことは、日本史を勉強していれば気が付くことである。

日本は海外から新規にもたらされたものと在来のものを融合させることに長けている。

アンパンやカツ丼といった食文化はもとより、和洋折衷住宅、セーラー服など、衣食住の全般にわたって、異文化を巧みに取り入れて日本流にアレンジしたものが、今では当たり前のように日本文化の風景に溶け込んでいる。

つまり、自国の文化が異文化と出合うことで化学反応を起こし、新しい文化が創造される。

異文化、他者を触媒として、文化や社会はさらなる発展を続けるのは、日本文化に限らない。

経済用語にイノベーション(技術革新)という言葉がある。

これは、2つの異なった技術や分野が融合することによって引き起こされる。

新しい製品の創造はゼロから為されることよりも、このような他者との出会いによるところのものが大きい。

イノベーションも広い意味で、異文化体験のひとつの成果と考えていい。


(2)問題・「異文化体験の意義」滋賀県立大学人間文化学部2016年





次の文章を読んで、後の問いに答えよ。

①だいぶ以前になるが、アメリカはミシシッピ川に近いある場所で、老若男女の出家・在家の人たちと一緒に修行したことがある。1964年に渡米したという日本人の老師を指導者として集まった彼らは、牧場を含む広大な原野を切り開いて、そこに高床式倉庫と見まごうばかりの坐神道場を手作りし、朝3時半から9時まで、日本の道場顔負けの修行に明け暮れていた。

②ある日、今日は作務(禅道場の修行としての労働)が大変なので、夕食は正式の作法を略して、そばにするという話になった。その日割り当てられた力仕事の途中でキッチン小屋をのぞくと、トムともう一人の典座(てんぞ)役(注1)の女性が「SOBA」なる袋を破いている。

③うん、久しぶりのそばか。私は喜んだ。この前のは要するにみそ汁の中にそばが入ったヤツだったが、それなりにうまかった。今日こそショウユ味になるかもしれん。のぞいている私に気づいてトムがニヤッと笑った。「ユー・ライク・そば?」

④「ベリーマッチ」

⑤私は張り切って仕事を再開した。

⑥しかるに、いよいよ夕食になって出てきたものを見て、私は仰天した。そばがケチャップまみれになっている。そこにタマネギとニンジンとグリーンピースが混ぜ込まれて、まるきリスパゲティのナポリタンをそばでやったのと同じことだ。

⑦私はしばらく渡された器の中を呆然と見ていたが、ふと顔を上げると、老師が吹き出すのをこらえるような顔をして、こっちを見ていた。なるほど、そばのナポリタンは、「想像を絶する」アメリカン・フードであった。こういうものを何度か食べているうちに、私は次第に「伝統」とか「文化」とかいうことを、自分の問題としてリアルに考えるようになった。

⑧(1)こういう経験をして日本に戻り、その後、自らも禅道場の修行者として、外国の修行者とつきあい続けるうちに、私にはひとつの確信が生まれた。それは日本の「伝統」「文化」にからんで「本物」とか「本家」とか言い募ることの無意味さである。禅もときとして、そういう言い方をされることがある。すると、この発想からは、次のような質問が出て来やすい。

⑨「外国人に日本の禅が本当にわかるんでしょうか?」

⑩この言い方をする人は、暗に、今修行中の外国人は、本当にはわからないままに、「本物まがいの」修行をしていると言っていることになる。すると、その一方には容易に外国人に理解されないはずの日本の「本物の」禅があるというわけだ。

⑪問題はここである。その「本物」さは、何に基づいて言うのか? 「本物」を保証するのは何なのか? 仏教も禅もインド・中国、さらに朝鮮半島伝来のものだから、少なくとも起源の意味で「本物」とは言えまい。

⑫日本の禅宗の祖である臨済宗の栄西禅師(注2)もわが曹洞宗の道元禅師(注3)も、はるばる中国に渡って命がけで禅を学び、日本に「伝えた」のであって、「日本の禅」を発明したわけではない。またそもそも、日本人にしかわからない教えなど、最初から大した意味はない。日本文化の代表のように言われる茶道や華道も、禅あってのものだから、これを日本「独自の」文化と言っても、その限界を無視すれば、単に無教養な物言いにすぎまい。

⑬これと好対照に、今度は外国人の修行者の方にも「本物」にこだわったナンセンスな発言をする人がいる。彼らは言う。

⑭「日本の禅は、日本の文化や慣習の中で変質しているから、純粋の、本当の禅ではない。日本の禅を学んでも本物の禅はわからない」。あるとき、こういう言い方をされた私は、カチンときて言い返した。

⑮「あなたは、どこか空中に禅そのものが浮かんでいるとでも言うのか? 生身の実践者がいてこその禅だろう。白身のない黄身だけの卵がこの世にあるのか?」

⑯こういう議論は、少なくとも禅の修行においては、総じて無意味であろう。

⑰人生を深く思う者が、その課題に臨んで解決の手段としたものが禅であるなら、その採用が選択であろうと偶然であろうと、あとはいかに真摯に取り組むかだけが意味ある問いであろう。どの時代にどこの場所で禅に出会うかは、人それぞれの縁にすぎない。ただの縁にすぎないものが「本物」「偽物」を決められるはずがない。

⑱私はときに思うことがある。いまからおよそ750年前、波濤(注4)をこえて中国にまで出かけた僧侶にとっては、何もかもが初めて見聞するばかりの異国の異物であり、すなわち徹底的な「他者」であったろう。そこに己の一身をかけて求めるにたる何かを見たのである。けだし、学ぶにたる「異文化」の意味は、今も昔も、それとの関わりが広く深く自己を充実させていくからだろう。

⑲その「異文化」はまた、単に外国にあるのではない。今の日本の若者にとって、いや毎日の生活に忙殺される大多数の日本人にとつて、禅はほとんど全く「異文化」であろう。さらに自戒をこめて言えば、「葬式仏教」と揶揄されるとき、そこには僧侶にとってさえ、禅は「異文化」なのではないかという、世の問いかけがあるだろう。そうして見れば、「異文化」とは、結局自己の在り方に目覚め、自己の行方を導く、自己の根拠としての他者なのかもしれない。

⑳「そばナポリタン」をご馳走してくれたトムさんは、膨大な日本料理のメモを持っていた。あちこちの禅センターに出入りするうち、そこに来ていた日本人の僧侶や在家信者に教えてもらったり、尋ねたりして作ったという。「そばナポリタン」は、その蓄積から出てきていたのである。私は面食らったが、他のアメリカ人はおいしそうに食べていたし、そばなど何がうまいんだという日本の若者でも、ひょっとしたらこれなら喜んで食べるかもしれない。そう言えば「カリフォルニア巻き」という鮨があるが、これを発明した鮨職人にしても、日本のにぎり鮨の基礎があればこその応用だろう。独自性と普遍性とは相反するものではなく、ひとつの創造力として同時に実現されえるのである。(2)学ぶことの中にある「異文化」のおもしろさは、こうした自己における可能性の発見でもあるのだろう。

(南直哉「『そばナポリタン』の禅」、選書メチエ編集部編『異文化はおもしろい』、講談社選書メチエ、2001年を一部改変)

(注1)典座役…禅道場の調理責任者役。

(注2)栄西禅師…臨済宗の開祖。宋に二度渡航し、禅や茶を日本に伝えた。著書に『興禅護国論』『喫茶養生記』など。

(注3)道元禅師…曹洞宗の開祖。宋で禅を学び、永平寺を開いた。著書に『正法眼蔵』など。

(注4)波濤…高い波。

問1  太字(1)について、なぜ筆者はそのように考えるのか、禅の場合に即して100字程度で説明せよ。ただし、句読点も字数に入れ、1マスに1字使うこと。以下の問いも同様。

問2  太字②の内容をふまえた上で、あなたは「異文化」との出会いが持つ意味をどう考えるか。400字程度で自由に述べよ。

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