人は何故産まれてくるのか。
それは簡単な話だ。
死ぬためだ。
その日の為に産まれ生きていかなくてはいけない。
「苦労は買ってでもしろ。」
「可愛い子には旅をさせよ。」
こんな文句はよく聞くのではないでしょうか?
人生とは経験を多くする事と
知識を多く持つこと
沢山の徳を積むことにある。
私は2歳でこの世の全てに絶望した。
赤子にとって世の中とは家庭の中にある。
その家庭が生きていたくないと思える状態だったのだ。
3つ上の姉には一つ下の妹を取られ
私はいつも一人だった。
私はおむつが取れた時の日を鮮明に覚えている。
初めて一人でトイレに行き一人でパンツを履けた日だ。
嬉しくて褒めて欲しくて
母親の所に向かった。
「ひとりでできたよ!」の報告に
「パンツが後ろ前じゃない!全然できていないじゃない!」と
逆に怒られてしまったのだ。
母親は遊んでくれない。
専業主婦だが父親の世話しかしない。
私は他の家に入り浸っていたそうだ。
それは覚えていないが
中学校のサッカーの交流試合を見に来ていた父兄に
「○○ちゃん、だよね?!
おじさんいつもオシメ変えてあげたりしてたんだよ~!」
と懐かしがって色々と教えてくれた。
3歳からは全て覚えている。
左隣の家に男の3人兄弟がいたので
毎日、誰かと遊んでいた。
オムツを変えてくれていた家は引っ越し
新しい家族が入ってくると一つ年下の女の子と
まだ赤ちゃんの男の子がやってきて私は
そっちの家にも入り浸っていた。
私は可愛かったのでどこの家でも可愛がわれた。
家では無言の食事が待っている。
箸の正しい持ち方は小学校の時に従兄に教わった。
生理が来た時は友達のお母さんがお祝いしてくれて
ナプキンも持たせて帰らせてくれた。
家は私にとって地獄の監獄の様な存在だった。
夏休みなど休暇が入ると姉妹で家事を全部しないといけなかった。
テストは80点台までしか許してもらえない。
100点を取っても他にも100点の子が居たら褒めてもくれない。
厳しいお爺ちゃんの為に書道に通わされていた。
だがソコが私のオアシスだった。
好きなTVを見させてくれて、正書が書けたら
先生と一緒に晩御飯を作って食べていた。
小学2年から高校2年まで通った。
先生の家に行けば土曜や休みの日など
「ご飯食べていきなさい」と
優しく言ってくれるお爺ちゃんだった。
先生のおかげで戦争と言うものを
一から十まで教え込まれた。
先生の経験談から
戦争のビデオテープをずっと見せられていた。
先生は飛行部隊の唯一の生き残りで
現地で満州の料理や言葉を習ったらしい。
私にも中国料理を教えてくれた。
亡くなってしまった友人の骨の粉を小瓶に入れて
大切に持っていた。
私は先生のおかげで唯一、お爺ちゃんと会話できる孫だった。
お爺ちゃんは戦時中、外務省職員で満州からの
引き上げ列車で最後の便に乗らねばならず
止まる駅ごとに中国人、朝鮮人に
身ぐるみはがされ、暴行を受け何とか帰ってきたらしい。
片目は義眼だった。
お爺ちゃんは市議もやっていて兼業農家だった。
なので父親は日曜になると農業の手伝いに
家族全員で行かねばならなかった。
私は小1で小指を八針縫う怪我をおったが
母親は泣いても無関心どころか
逆に怒って「手伝わないなら帰れ!」と激怒した。
心配したおばあちゃんが後から家に帰って来てくれ
ティッシュで傷を覆いセロハンテープでぐるぐる巻きにして
止血した。
日曜だったので
月曜になれば病院に連れて行ってくれるのではないか、と
期待していたが母親は無関心だった。
私は諦め、遊びに出かけた。
丁度、整形外科のナースをしている子供の家に行ったので
その分厚いティッシュが真っ黒になって固まっている姿を見て
すぐに重症だと判断してくれた。
傷口を確かめようとしてくれたがティッシュはガチガチに固まり
途中で剥くのを諦め
「お母さんに病院に来るよう言ってくるからね?」と
私の家を訪問し病院に来させるように言ってくれた。
家に帰ると母親は不機嫌になっていた。
しかし世間体を重んじる人だったので
病院に連れて行かざるをえなかった。
普通は子供を一人で診察室に行かせたりしないものだが
私は名前を呼ばれたら一人で行かされた。
そこで骨の横まで切れていて肉がぶらさがった状態の指を見て
先生も看護婦達も気の毒がった。
「麻酔するからね?」
とその麻酔が指の先までだったのでとても痛かったのを覚えている。
「傷は何年かしたら消えるからね?」
と優しく言ってくれたがもう広がった傷を無理やりくっつけたので
44歳になる今もくっきり縦の傷と横に縫った傷跡が残っている。
母親は会計を済ませるとさっさと帰って行った。
私はこの顔でなければきっと自殺を実行していただろう。
小2で自殺をしようとしたがきっと「原因は家だ」と言われ
墓の前でまで責め立てにやってくるだろうと考えると
私は怖くて自殺できなかった。
私は学級委員長に毎回、推薦されるような子供だった。
水泳も1級で小3からサッカーもし小2から書道に通い
毎日誰かの家に遊びに行くので友達も多く男子とも仲が良かった。
なので特別
気に入ってもらった家では家族旅行に私を連れて行ってくれる程だった。
もちろん良いことばかりではない。
男子から人気があると、陰険な女子は足を引っかけてきたり
上履きを目の前で遠くに投げたりもされた。
「〇〇くんと話さないでよ?!」と
脅されたりもした。
そんな感じで中学校まで続いたので私は高校は迷わず女子高を選んだ。
男で揉めるのはもう沢山だ。
高校に行く気も無かった。
当時は中卒で美容師見習いになれ
そのまま試験に合格すれば美容師になれた。
寮も付いていたので私は家を出てその道を生きようと思っていた。
だが運命は残酷で入れるはずだった寮が半年延長になったので
家から通うしかなくなったのだ。
それは絶対にできない相談だった。
親は進学校に行き4年制大学を出て、公務員と見合い結婚。と
人生のレールを既に決めていたのだ。
私は高校に行くくらいなら楽しい所にしたい、と
食物科と服飾デザイン科のある高校を選んだ。
本当はデザイン科に行きたかったが人気が無く
偏差値も低かったので姉が通っていた進学校と同じ倍率、偏差値の
食物科を受けた。落ちた時用の私立は受けないと断固拒否した。
その高校は歴史が長くお爺ちゃんの従兄が校長をしていたこともあって
何とか受験が許された。
私は見事に食物科に受かってしまい落ちた子が服飾に回されていたのだが
料理の道を行くことになった。
高校に入るとすぐに生徒指導に友達と2人で呼びだされ
「お前らは高校の名を汚すカスだ!自主退学しろ!」と
教員室のみんなの前で怒鳴られた。
友達は階段まで行くと泣き始めてしまった。
私はどうでも良かったが「あいつ今年で定年だから一年の我慢だよ!」と
慰め頑張って通う事にした。
そして予定通りその先生は定年で去り
私に逆らえる先生はいなくなった。
嫌いな先生の授業には一切出ない。
好きな先生にはちゃんと授業には出てあげていた。
毎回ではなかったから先生が必要な時は
保健室か中庭に呼びに来た。
先生たちはとても優しかった。
保健室に通っているうちに先生がおかしいと気づき
精神科を紹介してくれたからだ。
私は壊れていた
壁に頭をぶつけたり、カッターで腕を切ってみたり
音楽を大音量で聞くか絵を描く事でしか
もやもやは取れなかった。
幻覚や幻聴もあった。
それは中学の頃からだったが自分がおかしいとはちっとも思わなかった。
そして先生の勧めで精神科に通い
早く誰かが殺してくれる事を願った。
親は一回しか通院してくれなかった。
そして
私の唯一の生きがいのマイケルジャクソンのファイナルツアーを
取り上げられて私は殺意を覚えた。
包丁を持ち後ろから刺そうとしたが
ふいに振り返った母の顔を見ると震えて刺せなくなってしまった。
もう高校を辞めて生きてこうと決め
退学届けを貰おうとしたが先生たちの必死の説得
で少し待つことにした。
そうしたら担任と病院の先生との説得で
高校を卒業させたいなら一人暮らしをさせてあげること、と
約束を取り付けてくれた。
料理は小さい頃から作っていたし、掃除洗濯も
させられていたしなんの障害も無かった。
そうして少しのイザコザはあったものの卒業し
それでも自分の人生に介入してこようとする親に
私は絶縁状を手紙に書き、送り18歳で結婚しようとした。
しかしその婚約者は同棲し私がラウンジで働き始めると
ヒモ生活に変わり私は嫌気がさして別れると言い捨てたが
「別れるなら俺は死んでやる!」
と脅してきて私は見捨てる事が出来なかった。
そうして1Rから3DKのマンションに引っ越し
別々の部屋にし何とか働かせたが
彼は「外食しよ!」と誘い出し奢りか割り勘だと思っていたのに
そのまま「ごちそうさま」も「ありがとう」もなしに
食べ終わるとスタスタ出て行ってしまった。
そして働いた給料が入ると家賃の半分は
入れてくれるだろうと思っていたが服と香水を買って
自慢してきた・・・
私は堪忍袋の緒が切れて彼と接触しないように
ホステスとして働いた後はアフターするか
ボーイさん達の仕事を手伝い朝7時まで遊んでいた。
そんな時、系列店のホストに惚れられ
しつこいアタックを受けた。
最初は私は嫌がっていたが、歌のうまさと
香水の匂い、彼の人生経験の豊富さに惹かれて行った。
彼は元〇暴だったが、命を狙われここに逃げて来たのだった。
彼の武勇伝や、今までの彼女にDVをしていたことを聞いていたが
それは過去の事、として受け入れていた。
私の初体験がレイプだったと知ると
キスだけで手を出してくることは無かった。
そんな彼に惹かれ周りにも相談し付き合う事に…
しかしその判断は間違っていた。
結婚してもいいね、と言ったとたん
態度が急変したのだ。
聞いていた通りのDV野郎に戻ってしまった。
「結婚するって言ったんだからこれからは俺の言う事を聞けよ!」と
大した理由もなく突然スイッチが
入り切れて殴られたり髪をにぎられ床に顔を打ち付けられたり
色んな拷問を受け毎日、死ぬか殺すかの日々だった。
6回家出をしたが淋しくなり公衆電話から
電話し「帰ってきたらもうしないから」の
甘い誘い文句に何度も騙され家に入った途端、暴行を受けて居た。
もちろん彼は〇暴だったので高校に出向いて
卒業アルバムを見せろと暴れたり
携帯に入っていた親友達にも脅しをかけていた。
おかげで私の大事な高校の親友達とは縁を切られた。
私は携帯電話も取り上げられ
唯一、暗記していたラウンジの友達に助けを求める電話をし
彼女の仕事が終わるまで駐車場で隠れていた。
彼女もやはり狙われ脅されていたが
父親の親友が〇暴の親分だったこともあって強気に対応してくれていた。
親の所にも行っていてタダの性の不一致が原因で逃げているだけだと
信じさせた。馬鹿な父親はそれを信じ私の暴行を受けていると言う主張を信じてはいなかったので話し合いを勧めてきた。
ただ、その話し合いの場に父親が付き添い旦那の怒りを買い
殴られそうになり、そこでやっと彼の凶暴な性格に気づき
何とかしようと女性保護施設に入れるように手配してくれた。
実家には毎日、DV旦那から電話がかかり
母親も父親も疲弊していった。
私は殺し屋を雇う準備をしていたが父親が
それを止め、離婚弁護士を雇い調停、
裁判を行い正式に正攻法で別れる事を勧めてきた。
私は巻き込んでしまった負い目もありそれに従ったが
調停に出てきた旦那は私に会えると思っていたのが
別室で時間差で外に出されたのを体験し2回目は
体調が悪いと欠席し、裁判に移行させたがソコに旦那やその友達が
集結し私を取り戻そうと画策していた。
そしてそれは成功し私は連れ戻され
裁判を取り下げるように言われ弁護士に電話するしかなかった。
そして私は彼の場に仕事場に連れていかれ
逃げないように見張られた。
そして若頭に事務所に連れていかれ
「何で何回も逃げる?あいつは凄い辛そうだったぞ!
理由があるなら話してみろ!?」
と、言われたが話せば私が後で倍返しを受ける・・・
若頭は旦那を叱責する事は分かっていた。
でも旦那はそんなことで治るわけもない。
後から倍返しをくらう。
なので私は若頭と「指切りげんまん」をした。
「針千本なんて飲めないから小指を切るんだぞ?」と
脅し文句を言われたが私はもう小指を切る覚悟をしていた。
そしてまた逃げ出した。
警察は何もしてくれない。他人にならないと。
なので私は離婚届けを偽造し提出した。
そこで暴行受けた後、警察に届け出をし受理してもらった。
そしてまた逃げ見つかって家に帰る前に
親友に「今から家に入るから1分しても電話が無かったら警察に電話して?」と頼み、荷物を取りに家に入った。すると案の定、旦那が
バスルームから出てきて押し倒し、
私の喉にタオルを押し込んできた
私は死ぬんだな、と覚悟した。
しかし私が死ぬより友達が駆けつける方が早かった。
私は大泣きしていたので、旦那の方が先に警察署に向かった。
落ち着いて私が出向くと8人にのぼる警察官が部屋に入って来て
「お前が勝手に離婚届けを出したんだってな!
公文書偽造でお前の方を逮捕するぞ?!
今は年末で忙しいんだよ!取り下げろ!」
と脅してきた。
私はあまりの警察の反応に泣き出すしかなく
「弁護士を呼んで!」と何とか絞り出した。
そして弁護士が翌日駆けつけてくれると
警察の態度が一変した。
旦那が〇暴で今まで施設に居たこと、
調停で私にした行いを認めていたことを知ると
警察は私の味方に変わったが具合が悪かったのか担当官が変わった。
そしてやはり手早く事を処理したい警察は
私の話す事を一切調書にには書かせず
私は警官が読み上げる文を書きとるように強制された。
そこに殺人未遂や暴行はなく
家に不法侵入したことのみを焦点にまとめ上げた。
しかし暴行された時の写真などは撮っていたので
検察では「一番重い刑にするからね?」と気を使ってもらった。
きっとこんな事は日常茶飯事なのだろう。
そして約束通り、一番重い刑を執行してもらったが
6か月の収監のみ。
私は何処に逃げようかと考えたが
いつも色んなと所に飛んでいたので今回はその裏をかいて
そのまま居ようと決めた。
そこで息子のパパとであった。
パパは良い人間でバーの店長をしていたが
嘘つきで話を大きく言う性格であった。
血液型も息子が産まれるまで嘘をついていた。
私がいつもA型と付き合っていると言ったから…
なのに生まれた子はO型の私から生まれるはずのない
B型の息子。
問いつめてようやくAB型だと告白した。
パパは優しく嘘交じりの会話も楽しかった。
しかし上京してから全く働かなくなってしまった。
人の下について働くことが
出来ない性格だったのだ。毎日誰かの文句を言い辞めるという。
なので体の弱い私が働けなくなっても貯金がギリギリになっても
働いてくれる気配はなかった。
私は渋谷でスカウトされた会員制の高級出会い倶楽部に所属し
月に4回だけ誰かに会い一回10万で自分を売って
そのお金で生活するしかなかった。
一回一人の人に決めて仲良くしていたが
その社長はまだ31歳でイベント会社を経営しており
薬物に手を出していた。覚せい剤には手を出していなかったが
葉っぱや、コカイン、MDMAを私にも勧めてきた。
最初は付き合っていたが、コカインの純度高い物でも
精神薬を大量に飲んでいた私にはちっとも効かなかった。
それを毎回、不満げに見ていた社長は
私に葉っぱを二回吸わせ、MDMAを飲ませ、コカインを二列吸わせた
一気にすると私にも異変が起きた。
TVの画像がキラキラ光って見えたそして私は
気を失ってしまった。
6時間後、目覚めた私はこのままでは息子を残して死ぬ危険があると判断し
一切、この社長からの連絡は断った。
3か月間、ずっと連絡してきたが私は無視して過ごした。
そして温泉事業を営む社長を紹介してもらい
その温厚な社長としばらく付き合った。
パパは家で息子の世話と家事をしていた。
私は体調が回復すると歌舞伎町で一緒に働いていた友達と
一緒の池袋の店に移った。しかしその店は物凄く厳しく
休みを取ったらその分他の休みの日にその分働かなければならなかった。
体がとても休まらない日が続いた
そして友達と一緒に飛んだ。
パパと別れようと何度も考えた。
こっちに友達もいないし仕事もないパパは
ギャンブル依存症になったのだ。
私が稼いだ何百万ものお金は
パパのスロットに消えた・・・
靴代を渡しても「予約してきた」と言い
「引き替え書見せてよ?!」と言うと
「ない。。。」と白状する。
食費だけ分けて家に置いておくと全部持って行って
泥棒が入った!と嘘をつく。
お小遣いをあげると全部一気に使ってしまい
「もう無くなった!でもあと少しで出そうだから3万貸して!?」
「席、取ってもらってるから行かなきゃいけない。早く!」
と、私に貯金を引き出させ結局負けて帰って来る…
私はもう何の期待もしてなかった。
正直、パパは2番手で本当に好きな人は別に居て
付き合っていたがキスする程度でお互い恥ずかしがるほど純な恋愛だった。
パパは家を知ると毎日、仕事上がりに
家に来て「ドアを開けろ~!」としつこかったので
顔も外人みたいでカッコよかったので
簡単に体を許しただけの存在だった。
一方パパにも私より一年前から付き合っている彼女がいた。
息子を産んでから知ったが、もうそれでパパには
エンドマークを付けていたのだ。
でも再婚すれば義理の父親に息子が虐待されるのではないか?
という不安がぬぐえずにいたので
息子と私を大切にしてくれるパパを捨てきれずにいた。
パパに見切りをつけたのは5年後だ。
また、体調を壊し働けなくなった私は何としてでもパパに
働いてくれるよう頼みこんだがパパが選んだ仕事は
「カードローン詐欺」だった。
一日3万と言われ惹かれたようだ。
しかしこれは2回目で失敗に終わる。
パパが家に帰ってこなくなり逃げたかな?と
諦めていたが数日後、
北の方の県の警察署から電話がきたのだ。
パパの名前の確認やどうしてパパが帰ってこなくても
捜索願を出していないのか?など色々聞かれたが
結局、私は事情聴取に呼ばれることになった。
息子を連れ、新幹線で北上し
まっすぐ警察署に向かった。
最初は私も関与しているのではないか、と疑われていたが
話して行くうちにパパの性格など話
私の話に偽りは無いと信じてくれ
パパと面会した。
息子は唯一、このアクリル板越しの面会の事を覚えている。
裁判の事は忘れているが…
私は結局、情状酌量証人にされ法廷に呼ばれた
そこで裁判官の無知を体験し苛立った。
正直になんでも話したが裁判官の質問は意地悪な物ばかりで
まっすぐ人生大した経験もなく生きてきた人間の物言いだった。
なので私はキレて「あなたに何が分かるんですか?」と
言い放った。私のキレ気味に裁判官は委縮した。
実刑確定と弁護士も言っていたが、この私の発言と
息子の可愛さもあってか執行猶予5年が出た。
パパも喜び警察署で友達になった人たちも駆けつけていて
一緒に祝って新幹線口まで送ってくれた。
警察官は泥水を飲んだかのような顔で
「次はないからな!」と吐き捨てた。
私はまた養わなければならない事に落胆した。
そして一ヶ月経ったがまたパパのギャンブル中毒が
再燃し、明日振り込まなければならない家賃を
全額持っていき破産して帰って来た時に私は堪忍袋の緒が切れた。
もう、こんなの要らない。
私は翌日、速攻お金を用意し振り込み
「出て行って!寮付きの工場とかあるでしょ!」と
工場派遣を勧め面接に行かせた。そして合格が決まると
行きの交通費と少しの食費を持たせ追い出した。
息子と2人、休みの日は2人で餃子を皮から作ったり
簡単なパンを作ってみたり楽しい毎日だった。
息子が小学生になる前にまっとうな仕事をしようと
時給の高いゲームセンターに入った。
新居はマンションではなく中身は新築同様リフォーム済だが
○○荘と名の付く築30年の物件に移動した。
2LDKで7万だったのだ。
ここで保育園まで何事もなく過ごせたが
息子が小1になると「分離不安障害」になってしまった。
パパも居ないので私に依存し始めたのだ。
病院に通いプレイ療法など試したが2年間変わらずだった
ようは赤ちゃん返りと同じで
母親の姿が見えないと不安に陥るのでトイレまで付いてきたりしていた。
ちょっとしたコンビニに行くのも一人で行かせてくれない。
友達の家に遊びに行ったはいいが30分後には
友達の母親に連れられて泣きながら家に帰って来ていた。
友達の母親曰く「ママがいい~!!」と急に泣き出したそうだ。
ママにべったりの日々が小6まで続いたが
学校まで送ると先生が引き取りに来てくれ最初は嫌がるが
離れると観念して学校に入り学校では普通に過ごしているようすだった。
中学に入るとさすがに一人で行ける様になったが
私の香水の付いたタオルを抱いて寝るような淋しがり屋になってしまった。
この間2人の男性と婚約したが
1人は昔の男と同じでレストランで奢っても
ありがとうも、ご馳走様もなし・・・
私のパソコンの履歴を調べ色々な情報を引き出してきた。
速攻、嫌いになり家から追い出した。
次はまともな人だったが一度も家に招待してくれないので
疑っていたが同棲してみるとその謎が解けた。
汚部屋なのだ。いつもはお洒落でキチッとしているのに
家に帰ると脱ぎ散らかして洗濯物も出して着なかったらその辺にポイっ
寝るまでお酒を飲んで食べっぱなしの飲みっぱなしで
お菓子の袋もそのまま。
これでなぜゴキブリを怖がらないのか分かった。
私は風水を信じているのでそんな状態で眠りに着けるわけがない。
結局私が最後まで起きていて綺麗に片づけなくてはならなかった。
婚約写真まで撮ったがやはり私はイライラするだろう。と
別れを切り出した。
そしてまた引っ越した私たちは良くない環境を選んでしまったのか
息子は中2で引きこもりになってしまった。
息子はいつも引っ越すたびに初日から友達を作り
遊びに行くような子供だった。
モデルをやっていた事もあって色々大人びていた。
その息子が、彼女も出来ていて大切にしていたのに
彼女の連絡先まで削除し一人を残し全部消してしまった。
しかし私は何も言えなかった。
遊びに行くたびに泣きながら帰って来て布団に潜り込んで
泣きじゃくっている日が多かったからだ。
毎日友達と遊んでいたが、家に遊びに来ても
皆バラバラでDVDを見る子やゲームをする子
パソコンを見たがる子、結局、一緒に遊んでいない。
私が一緒に遊んでいる姿は、冬に大雪になり積もった雪で滑って遊んだり
雪合戦をしている時だけだった。
都会の子はこんなもんなんだな。と可哀そうになった。
息子は「おばあちゃんちみたいな田舎が良い!」と切り出したので
私はUターンすることにした。
親の家に行くことは絶対ない。
休みの日に飛行機で帰り物件を探しある程度田舎で
でも仕事もある土地に引っ越した。
そこで最初は新学期から通うと意欲を見せていた息子だったが
結局、登校できず、担任が訪ねてきた。
前の学校ではありえない事だった。
そして担任は息子と少し話し翌日は来る約束をしたが
結局不登校に戻ってしまった。
しかしカウンセラーなどが家に来てくれ
不登校の子だけが通うセンターを教えてくれて
息子はそこに迎え付きで通う事になった
麻雀を教わったり、自分で木工をしてみたり
UNOで遊んだり同学年のいじめられっ子が一人いたので
息子はすぐ友達になった。
その子は見た目も普通で性格も良く
何故虐められていたのか私には全く分からなかった。
その子の家は厳しかったので定時制の高校に
行かされついでにバイトをすることも義務づけていて
24時間何時でも呼びだされたら行かないといけない
清掃の仕事をさせられていた。
私はそんな事絶対できなかった。
貯金を削りながら、引きこもり親の会に参加したり
引きこもりの対処法講座に参加したりと
色々行ってみたが、結局は傷の舐めあいと
分かり切ったうつ病患者の対処方法を教えられたに過ぎなかった
私は参加するのを止め、土日バイトで
後は息子と過ごす事を大切にした。
毎日一緒にご飯を一緒に食べる事!これだけを
約束させて過ごした。
一緒にUNOをしたり麻雀を2人でしたり
ダーツをしたりとにかく一緒に遊ぶことを優先した。
良いゲームが出ると完全制覇するまで部屋から出る事はなかったが
それでも息子は前よりいきいきしていた。
妹が心配してくれ息子の友達と一緒にUSJに
招待してくれた。
息子の友達は旅行に行ったことも無いようで
嬉しそうにしていたので息子も仕方なく行くことにした。
息子は毎年ディズニーに行っていたし
他の日にもディズニーやサンシャインシティや
東京ドームのレンジャーSHOWや
鴨川シ―ワールド、ドイツ村など
私は色々な場所に連れて行っていたので
息子は友達を可哀そうに思っていた。
USJは行ったことが無かったので
息子にも楽しみが出来た。
息子たちは存分に楽しみ、友達は人の多さに圧倒されていた。
友達と写真を撮るのも初めてだったみたいで
「後でください!」と嬉しそうにしていた。
そのまま息子の友達は卒業し仕事を鉄筋工に変え働き
息子は学校は退学し、何とか仕事の面接に行ったが
診断テストで落とされ、その何か月後かもう一度
「引きこもりが採用される仕事」で検索し
スーパーの品出し。を見つけたのだが採用され
キチンと出勤したがそこで軽い虐めにあい翌日から行けなくなった。
男性社員が朝礼で「こいつの顔が良いからって狙うなよ」と
言い放ち女子パートさん達は距離を取り
男性社員は何も教えてくれず「これやっといて」のみで
仕事を何とか片づけた息子は「何をすればいいですか?」と
聞いたらしいのだが「もう何もないよ?」と言われ
他の男性たちは世間話をしており話には入れてくれず息子は
1時間一人で立ったままだったそうだ。
それを聞いたらとても行かせようとは思わなかった。
雇ってもらえても環境が悪ければ意味がない。。。
それからこの4年仕事の話は一切しなくなった。
その代わり私がフルタイムで働き息子は家事全般する事になった。
毎日仕事から帰ると私の部屋に来て
今日やったこと、面白いアニメ、漫画など
色々報告にくる。
グラドルのDVDを買いたい時も私に言ってきて
その子の良さを語る。
私たちは仲の良い友達の様な関係性だ。
今が一番、安定しているような気がする。
このように人生とは色々と小説よりも奇な事が起こる。
私に至ってはいまだに薬を飲んでいるし
パパとは縁を切ったがパパの親とは連絡を取っている。
パパの母親は私と息子は「宝物です」と言ってくれた。
実の親より色んな話をする。
息子とお相撲さんごっこをしテーブルに頭をぶつけ
流血し救急車にも乗ったし、
脂肪種が6cm以上になり切除手術も受けたし、
子宮腺筋症になり子宮全摘手術も受けたし
昨年(2023)にはあおり運転を受け
細い道を飛ばし自損事故で顎の付け根を骨折し
顎の骨を固定し3週間毎食ジュース5種類をずっと続けた。
今でも最初に口を大きく開ける時は
「ゴキッ」と音が鳴る。
関節が無いのでずっとこのままだ。
こんなに最悪な事も沢山あったが
私はいつも最善をつくし後悔無い様に生きている。
今は初めて4年間同じ家で暮らしているし
それにともない大きな観葉植物や家具
色々な物を集めている。
今までは2年更新の期間で引っ越ししていたので
息子も「皆2年で引っ越すと思っていた」と言うほどだった。
なので家具も最小限。
コレクションなど揃えたりしなかった。
人生とは何が起きるか全く分からないものである。
でもそれはギリギリ乗り越えられる高さでやってくる。
苦しくても嬉しくてもその場その場で対処しなければいけない。
今とは1分、1秒しかないのだから。
どんなに苦しくても人のせいにしてはいけない。
自分で招いたものだ。
カルマともいうがそれは書き替えてしまえばいい。
一生懸命、生きる事。
これが人生だ。
私はいつ死んでも構わない。
それが人生だと信じているからだ。
迷うことなく好きな事をし、我慢できる程度までは
職業を変えず乗り越えていくしかない。
一寸先は闇。
これは全員に当てはまる。
なので人を羨ましがったりする必要もない。
自分を愛し大切にし、最善を尽せばそれだけでいい。
人生とは自分で作って行くものなのだから。