第二部『好きになってはいけない名前』

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「……え?」

湊の声が、思わず漏れる。

画面に表示されていた名前。
『結衣』——それは、元カノと同じ名前だった。

ただ、それだけ。
同じ名前の人なんていくらでもいる。
なのに心臓が妙に騒ぐ。

女性は慌てて通知を閉じた。

「あっ、ごめんなさい、見えちゃいましたよね」
「いや……たまたま」湊は平静を装う。

でも、頭の中では別の感情が暴れていた。

結衣。その名前を見ただけで、半年経った今でも胸の奥が疼く。

“未練なんてない”

そう思い込んでいただけなのかもしれない。

二人は駅近くの小さなバーへ入った。
木目調のカウンター。
静かなジャズ。
終電を逃した人たちが、疲れた顔で酒を飲んでいる。

「何飲みます?」
「じゃあ、カシスオレンジで」
「甘いの好きなんですね」
「疲れてる日は甘いの欲しくなるんです」

そう言って笑う彼女は、さっき泣いていた人には見えなかった。

でも、人ってそういうものだ。本当にしんどい時ほど、普通を演じる。
湊はハイボールを頼む。乾杯したあと、少し沈黙が流れた。

先に口を開いたのは彼女だった。
「……さっきは、ありがとうございました」
「いや、スマホ拾っただけなんで」
「それでもです」
彼女はグラスを指でなぞりながら、小さく息を吐く。

「今日、大事な約束だったんです
やっぱり、と思った。
あの通知。
来てくれるよね、という言葉。
きっと待っていたんだ。

「彼氏さんですか?」

聞いた瞬間、少し踏み込みすぎたと思った。

だが彼女は苦笑いする。

「……彼氏、ではないです」

“ではない”
その言い方に、妙なリアルさがあった。
恋人未満。
でも気持ちは恋人。
一番苦しい関係だ。

「好きな人?」

彼女は少しだけ黙る。

そして静かに頷いた。
「三年くらい、好きでした」
その数字に、湊は少しだけ驚く。三年。
簡単に忘れられる長さじゃない。

「でも今日、なんとなく終わった気がして」
「なんとなく?」
「女の勘、みたいなものです」

彼女は笑った。
でも、その笑顔は痛かった。

湊は思い出す。
結衣と付き合っていた頃。
返信が遅れた時。
電話を後回しにした時。
「また今度」が増えた時。

結衣も、こういう顔をしていたのかもしれない。

「男って、ずるいですよね」
突然、彼女が言う。

「期待させるだけさせて、肝心な時はいなくなる」
その言葉が、妙に刺さった。
まるで自分が責められているみたいで。

「……全部の男がそうじゃないですよ」
「ふふ、フォローですか?」
「一応」
二人は少し笑う。
空気が、少し柔らかくなる。

「そういえば、名前聞いてなかったですね」
「あ……確かに」
彼女は少し姿勢を正した。

「秋月 梨紗です」
「白石 湊です」

「湊さん」

名前を呼ばれた瞬間、少しだけ心臓が跳ねた。
恋愛って単純だ。
名前を呼ばれるだけで、距離が縮まった気になる。
しかも、相手が可愛いと余計に。

「梨紗さんは、いくつなんですか?」
「26です。湊さんは?」
「28」
「じゃあちょっとお兄さんだ」
「ちょっとだけですね」

そんな他愛もない会話なのに、不思議と居心地が良かった。
元カノと別れてから、こんな風に自然に笑ったのは久しぶりだった。


気づけば時計は深夜1時を回っていた。

「そろそろ帰ります?」

湊が言うと、梨紗は少し迷った顔をした。

「……もう少しだけ、ダメですか?」

その言葉に、一瞬で心臓がうるさくなる。

“もう少しだけ”
その一言には、妙な破壊力がある。
終電後。
少し酔った空気。
距離感。
視線。

恋愛が始まる夜って、こういう空気だったりする。
でもその時。


——ブルッ。


梨紗のスマホが震えた。
彼女の表情が固まる。
画面を見た瞬間、明らかに空気が変わった。

「……どうしたんですか?」

梨紗は答えない。
ただ、スマホをゆっくり伏せる。

でも湊は見えてしまった。通知の名前。

『悠斗』

そしてメッセージ。

『今から会えない?』

さっき“来れない”と言った男からの連絡。
都合のいい呼び出し。
でも。梨紗は、その通知を見つめたまま動かない。

湊は気づいてしまう。

——この人、まだこの男を好きなんだ。


胸の奥が、妙にざわつく。
出会って数時間。
なのに、取られたくないと思ってしまった。

その感情に、自分自身が一番驚いていた。

すると梨紗が、小さく笑った。

「……湊さんって、優しいですね」
「え?」
「今日、会えてよかったです」

その言葉が、嬉しいのに苦しい。
なぜなら。

彼女の視線の先には、
まだ別の男がいる気がしたから。

そして次の瞬間。梨紗は静かに立ち上がった。

「……ごめんなさい」
「え?」
「やっぱり、行ってきます」

湊の胸が、嫌な音を立てる。
引き止めたい。
でも、そんな資格はない。
出会ったばかりだ。なのに。


店を出る直前、梨紗は振り返る。
そして少し困った顔で言った。

「もしまた会えたら、その時はちゃんと笑って会いたいです」

そう言い残して、彼女は夜の街へ消えた。
一人残された湊は、冷めたハイボールを見つめる。

その時。


テーブルの上に、小さなイヤリングが落ちていることに気づいた。
シルバーの、小さな月のイヤリング。きっと梨紗のものだ。


——返さなきゃ。


そう思った瞬間。


店の外から、突然大きなブレーキ音が響いた。


そして次の瞬間——


誰かの悲鳴が、夜の街に響き渡った。


第3話へ続く
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