「……え?」
湊の声が、思わず漏れる。
画面に表示されていた名前。
『結衣』——それは、元カノと同じ名前だった。
ただ、それだけ。
同じ名前の人なんていくらでもいる。
なのに心臓が妙に騒ぐ。
女性は慌てて通知を閉じた。
「あっ、ごめんなさい、見えちゃいましたよね」
「いや……たまたま」湊は平静を装う。
でも、頭の中では別の感情が暴れていた。
結衣。その名前を見ただけで、半年経った今でも胸の奥が疼く。
“未練なんてない”
そう思い込んでいただけなのかもしれない。
二人は駅近くの小さなバーへ入った。
木目調のカウンター。
静かなジャズ。
終電を逃した人たちが、疲れた顔で酒を飲んでいる。
「何飲みます?」
「じゃあ、カシスオレンジで」
「甘いの好きなんですね」
「疲れてる日は甘いの欲しくなるんです」
そう言って笑う彼女は、さっき泣いていた人には見えなかった。
でも、人ってそういうものだ。本当にしんどい時ほど、普通を演じる。
湊はハイボールを頼む。乾杯したあと、少し沈黙が流れた。
先に口を開いたのは彼女だった。
「……さっきは、ありがとうございました」
「いや、スマホ拾っただけなんで」
「それでもです」
彼女はグラスを指でなぞりながら、小さく息を吐く。
「今日、大事な約束だったんです」
やっぱり、と思った。
あの通知。
来てくれるよね、という言葉。
きっと待っていたんだ。
「彼氏さんですか?」
聞いた瞬間、少し踏み込みすぎたと思った。
だが彼女は苦笑いする。
「……彼氏、ではないです」
“ではない”
その言い方に、妙なリアルさがあった。
恋人未満。
でも気持ちは恋人。
一番苦しい関係だ。
「好きな人?」
彼女は少しだけ黙る。
そして静かに頷いた。
「三年くらい、好きでした」
その数字に、湊は少しだけ驚く。三年。
簡単に忘れられる長さじゃない。
「でも今日、なんとなく終わった気がして」
「なんとなく?」
「女の勘、みたいなものです」
彼女は笑った。
でも、その笑顔は痛かった。
湊は思い出す。
結衣と付き合っていた頃。
返信が遅れた時。
電話を後回しにした時。
「また今度」が増えた時。
結衣も、こういう顔をしていたのかもしれない。
「男って、ずるいですよね」
突然、彼女が言う。
「期待させるだけさせて、肝心な時はいなくなる」
その言葉が、妙に刺さった。
まるで自分が責められているみたいで。
「……全部の男がそうじゃないですよ」
「ふふ、フォローですか?」
「一応」
二人は少し笑う。
空気が、少し柔らかくなる。
「そういえば、名前聞いてなかったですね」
「あ……確かに」
彼女は少し姿勢を正した。
「秋月 梨紗です」
「白石 湊です」
「湊さん」
名前を呼ばれた瞬間、少しだけ心臓が跳ねた。
恋愛って単純だ。
名前を呼ばれるだけで、距離が縮まった気になる。
しかも、相手が可愛いと余計に。
「梨紗さんは、いくつなんですか?」
「26です。湊さんは?」
「28」
「じゃあちょっとお兄さんだ」
「ちょっとだけですね」
そんな他愛もない会話なのに、不思議と居心地が良かった。
元カノと別れてから、こんな風に自然に笑ったのは久しぶりだった。
気づけば時計は深夜1時を回っていた。
「そろそろ帰ります?」
湊が言うと、梨紗は少し迷った顔をした。
「……もう少しだけ、ダメですか?」
その言葉に、一瞬で心臓がうるさくなる。
“もう少しだけ”
その一言には、妙な破壊力がある。
終電後。
少し酔った空気。
距離感。
視線。
恋愛が始まる夜って、こういう空気だったりする。
でもその時。
——ブルッ。
梨紗のスマホが震えた。
彼女の表情が固まる。
画面を見た瞬間、明らかに空気が変わった。
「……どうしたんですか?」
梨紗は答えない。
ただ、スマホをゆっくり伏せる。
でも湊は見えてしまった。通知の名前。
『悠斗』
そしてメッセージ。
『今から会えない?』
さっき“来れない”と言った男からの連絡。
都合のいい呼び出し。
でも。梨紗は、その通知を見つめたまま動かない。
湊は気づいてしまう。
——この人、まだこの男を好きなんだ。
胸の奥が、妙にざわつく。
出会って数時間。
なのに、取られたくないと思ってしまった。
その感情に、自分自身が一番驚いていた。
すると梨紗が、小さく笑った。
「……湊さんって、優しいですね」
「え?」
「今日、会えてよかったです」
その言葉が、嬉しいのに苦しい。
なぜなら。
彼女の視線の先には、
まだ別の男がいる気がしたから。
そして次の瞬間。梨紗は静かに立ち上がった。
「……ごめんなさい」
「え?」
「やっぱり、行ってきます」
湊の胸が、嫌な音を立てる。
引き止めたい。
でも、そんな資格はない。
出会ったばかりだ。なのに。
店を出る直前、梨紗は振り返る。
そして少し困った顔で言った。
「もしまた会えたら、その時はちゃんと笑って会いたいです」
そう言い残して、彼女は夜の街へ消えた。
一人残された湊は、冷めたハイボールを見つめる。
その時。
テーブルの上に、小さなイヤリングが落ちていることに気づいた。
シルバーの、小さな月のイヤリング。きっと梨紗のものだ。
——返さなきゃ。
そう思った瞬間。
店の外から、突然大きなブレーキ音が響いた。
そして次の瞬間——
誰かの悲鳴が、夜の街に響き渡った。
第3話へ続く