第1話:既読がつかない22時、止まったままの時計

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「お疲れ様!今日言ってたあのお店、予約取れそうだよ」
送信ボタンを押したのは、ちょうど3時間前の19時。
美咲(みさき、32歳)は、スマートフォンの画面を伏せては、数分後にはまた表に返す、終わりのないルーティンを繰り返していた。

通知センターに並ぶのは、仕事のメール、友人からのどうでもいいスタンプ、そしてSNSの広告。肝心の、彼――マッチングアプリで出会い、3回会った「健人(けんと、30歳)」からの返信だけが、そこにない。

美咲は、都内の小さなカウンセリングルームで働く心理カウンセラーだ。
日中は、クライアントたちの絡まった心の糸を解きほぐし、「どうして分かってくれなかったの?」「あの時、あんなことを言わなければ」という、過去に囚われた後悔の声を聴き続けている。

「人の心の機微には敏感なはずなのに、自分のこととなると、どうしてこうも盲目になるんだろう」天井を見上げ、深くため息をつく。
部屋の壁に掛けられた時計は、22時を回ろうとしていた。彼との時間は、あの日から止まったままだ。「また、やってしまったかもしれない」心の中で、小さな警報が鳴る。

最後に会った3日前、彼は少し疲れているように見えた。
「最近、仕事が忙しくて」とこぼしていた。
私はその時、彼を労わっただろうか。それとも、次のデートの約束を取り付けようと、自分の欲求を押し付けてしまっただろうか。「仕事が忙しい」という言葉をどこまで信じていいのか。それとも、私の何かが彼を遠ざけてしまったのか。もし、このまま連絡が来なかったら?「フェードアウト」という、マッチングアプリでは日常茶飯事の、けれど最も残酷な終わり方が頭をよぎる。

思考のループが始まり、夜の静寂が不安をさらに増幅させていく。(追いかけたらダメ。執着は、相手を遠ざけるだけ)カウンセラーとしての自分が、冷静に声をかける。しかし、恋する女性としての自分は、彼の「空白」を今すぐ何かで埋めたくてたまらない。

カレンダーはめくれ、季節は変わるのに、私の心だけが「あの日」に取り残されているみたいだ。
23時。美咲は、一つの決断をする。それは、以前なら決してできなかったこと。止まった時計の針を、無理やり力で動かそうとするのをやめること。(明日一日、自分から彼に連絡するのはやめよう。スマートフォンの電源を切って、鞄の奥深くに押し込む。空白を作るの。彼の中に、私という存在がいない違和感を。)絡まった気持ちを、一つずつ解いていく作業。
それは、彼ではなく、自分自身の心を穏やかに整えることから始まる。

翌朝、美咲は通勤電車の中で、スマートフォンの電源を切り、鞄の奥に押し込んだ。仕事を終え、カフェの窓際で一人、冷めたコーヒーを啜る。
ふと外を見ると、街はタイパ(タイムパフォーマンス)を重視する若者たちで溢れている。
効率よく、無駄なく、最短距離で幸せを掴もうとする彼らの姿。恋愛さえも、コスパとタイパで推し量られる時代。(でも、恋愛にタイパなんて存在するのだろうか?見極める力は必要だけど、ダラダラと悩む時間は、無駄なのかな)その時、鞄の奥でスマートフォンが震えた。電源を切っていたはずなのに、緊急用の通知が、鞄の隙間からかすかに光っている。恐る恐る鞄に手を入れ、スマートフォンを取り出す。

画面に表示されたのは、健人の名前ではなかった。「……お母さん?」着信に出た瞬間、母の震える声が鼓膜に届いた。「美咲、落ち着いて聞いて。健人さんが……」(え?なんでお母さんが、健人のことを?)
次の瞬間、母が口にした言葉は、美咲の予想を遥かに超え、止まっていた時計を一気に、けれど最悪の方向へと動かし始めた。

「健人さんが、……事故に遭ったって、今、警察から連絡があったの」コーヒーカップが、手から滑り落ちた。

(第2話へ続く)
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