小さなしあわせを見失ってしまうときに

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SNSで、ある方と知り合いになりました。
画面越しのその方は、毎日のように言葉を発信していました。
それは誰かを強く責める言葉であると同時に、長い間抱え続けてきた苦しさや悲しさが、行き場を失ってあふれ出ているようにも感じられました。

その方は、発達障害と、二次的にうつを抱えているとのことでした。
幼い頃から、ご家庭や学校でつらい経験を重ねてきたそうです。
親からの虐待、厳しい関わりや、学校でのいじめなど、「そのままの自分」でいることが難しい環境の中で過ごしてこられたのだと思います。

大学まで進学されたものの、周囲の期待に応えられなかった経験は、大きな心の傷として残っているようでした。
その痛みが、「社会が悪い」「誰かのせいで自分はこうなった」という言葉となって、繰り返し表現されているように見えます。

エリートと呼ばれる人たちを否定し、政治や社会に対して強い怒りを向ける。
その言葉の奥には、「どうして自分だけがこんな思いをしなければならないのか」という、深い問いがあるように感じました。

フォロワーの中には、優しく寄り添おうとする方もいらっしゃいました。
「小さな幸せを見つけてみませんか」「少しずつでいいので自分を大切にしてみませんか」といった言葉です。
けれども、その声はなかなか届かず、「それは恵まれている人の綺麗事だ」と受け取られてしまうことも多いようでした。

その様子を見ながら、私は考えました。
人はあまりにも深く傷ついたとき、自分を守るために、原因を外に求めることがあるのではないでしょうか。

本当は、自分の内側に目を向けることができれば、少しずつ楽になっていくのかもしれません。
しかしそれは、とても勇気のいることです。これまでの苦しみや、満たされなかった思いと向き合うことになるからです。

だからこそ、人は無意識のうちに目をそらしてしまうのだと思います。
それは決して弱さだけではなく、「これ以上傷つかないための選択」でもあるのかもしれません。

ただ、その状態が続いてしまうと、世界の見え方が少しずつ偏ってしまいます。
誰かの優しさや、ふとした小さな出来事の中にあるあたたかさにも、気づきにくくなってしまいます。

人の考え方には、自分に原因を求める「自責」と、外に原因を求める「他責」があります。
どちらか一方だけに偏ってしまうと、心のバランスを崩してしまいます。
自分を責めすぎても苦しくなりますし、すべてを他人のせいにしてしまうと、変わるきっかけを見失ってしまいます。

大切なのは、そのあいだにある小さな余白なのだと思います。
「もしかしたら、少し違う見方もできるかもしれない」と思える余地です。

小さなしあわせは、特別な出来事の中にだけあるものではありません。
朝の空が少しきれいに見えたことや、誰かの何気ない一言にほっとしたこと。
そうしたささやかな瞬間の中にも、確かに存在しています。

もし今、世界がつらく感じられるときは、それだけこれまでたくさんのことを耐えてこられた証でもあるのだと思います。

だからこそ、ほんの少しだけでもかまいません。
「すべてが敵ではないかもしれない」と思える瞬間が、どこかに見つかることを願っています。

すぐに変わろうとしなくても大丈夫です。
無理に前向きになる必要もありません。

ただ、少しずつでも、自分の内側と外側の両方に目を向けられるようになったとき。
そのとき初めて、これまで見えなかった小さなしあわせが、静かに見えてくるのかもしれません。


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