波乱万丈から始まった2023年。来月で京都に移転して早、半年か...
東京世田谷生まれの自分。でも、その中身はスマートで小洒落た東京人ではないと思う。実際、東京社会の中では、つねに浮いてきた存在だと自分では思う。むしろ、自分は、西の人間性に非常に近いと思うんよね....
(↑このイラストを選んだ時点で、非常にセンスが西っぽいし。)
東京で出会って、親しくなった大阪の人は全員が必ずお前は大阪でやっていける認定をくれてたけど、実際、西側は非常になじみがよい。
いかに笑える部分を見つけるかを楽しむあたりも価値観合うし、詐欺事件をきっかけに積極的に関西人擬態化に勤しむようになってからは、より生活が気楽なものになっていった。
標準語は、関西弁がベースの人にとって、非常によそよそしい言語で、相手との間に一線を引くための言葉である。
逆に関西弁というのはリズム感があって、声に気持ちが乗りやすい言葉ゆえに、本音で話せる言語なのだと、関西人は言う。
そして同時に、ここ京都での標準語は、観光客・一見さんという立ち位置を暗に表すので、標準語を使う限りは、なかなかコミュニティに入って行きにくい面がある。
だから、下手くそであっても関西弁、関西イントネーションに近づければ、ガードを降ろしてもらえて、人間関係がいい形で広がっていった。
(※ただし、自分が正しい関西弁をしゃべっているかどうかはわからない。関西人には、「頑張って馴染もう感」は伝わっているに違いない。)
そして、西の親しくなった人と交流すると、観光では全く見えてこなかった西側の人たちの東に対する本音というのがわかってくるようになり、西と東はまったくちがうカルチャーなのだということを改めて認識させられる。
まるでマスメディアで一つにまとめ上げられたかのような日本だけど、それでもまだ方言が存在し、独自性が発揮されている県民ごとのエピソードはそれだけで非常に面白い。
そして、東京に最初から住んでる人間からすると、東京人こそ、実は日本にカルチャーギャップがあることそれ自体をそもそも知らないと思う。
自分たちが、日本の中心なので、自分たちが流行のもとであり、なんでも日本の常識のスタンダードだと信じて疑わないからだ。w
だからこそ、東京に住んでいると他県の思いに注意を払うこともない。
そんな自分も京都に住んでからというもの、思った以上に大きい、西と東の分断の大きさにやっと気がついてきた。
とりわけ西(大阪)のカルチャー・価値基軸について、東京人はかなり誤解して受け止めているという関係性も見えてきた。
一番インパクトがあるギャップは美学においてだと思う。西のかっこいい、と東のかっこいいの基軸がかなり違う。
今、1週間に1、2回は大阪に行く生活なんだけど、大阪シティは、巨大な高層ビル群が東京に似ているものの、街には明らかに他の都市にはない、異質なムードが漂う。事業の創業者の顔がばば〜んと目立つ看板。
そして、大阪は街中にダジャレもどきが溢れている。それは個人の枠を超えて、公共のなかにもみられる。
知られた西の交通系カードは、行こか。(icoca)だし、新大阪のショッピングセンターは、あるで(arde新大阪)。
そうそう、この間メトロに乗ってたら、風景のなかに、ゼブラ柄のラブ?ホテルを見つけた。
ゼブラ柄っていうのは、もともとサバンナでは自分の身を地平線上に隠すためのシマウマのカモフラージュなのだが、結局このビルの乱立する街中で、このホテルが目立ちたいのか隠れたいのか、一体どっちなんだか意図がイマイチよくわからないところが個人的にウケた。
そして大阪の女子は、ゼブラ柄のホテルから「さぁ、野生に帰れ!」という応援メッセージを受け取って勇気付けられているとしても、同時にこのホテルに連れ込む男のセンスをどう評価するのかも、やたら気になる。w
それに、自分が高校の時によくいた、ヒョウ柄のおばちゃんたちは大阪で、もう絶滅したのだろうか。
大阪って、韓国にセンスが近いと思う時がある。韓国っていうのは、全体の90%はスタイリッシュでクールで先進的でめっちゃかっこいいんだけど、そこになぜか、あえてわざとなのか、10%のダサさを織り交ぜる。
オチの加減が絶妙なんだよね。w
それと同じように、大阪のセンスというやつは、常にイ・ビョンホンを、舘ひろし似とみるか、原田泰造似とみるか、一体どっちを狙っているのだろう、というテーマと同じ葛藤を、東京人に容赦なく突きつけてくる。
要するに、ツッコミどころ満載のまちづくりが味わい。
京都のバスの中で海外の観光客と話してたら、「次に大阪に行って楽しみにしてるのは、ラニングマンをみることよ!」というので、ラニングマン??と思ったら、グリコのノースリーブのパッケージのアレだった。w
海外の人にとっても名所になっているのか。w
大阪もビル街、東京もビル街だけど、大阪の看板はおしゃれというよりも、エンターテイメント性が溢れる面白い看板がいっぱいある。これ東京では絶対に採用されないだろうなぁ〜というようなギャグセンスが、スタイリッシュで先進的なビル街の合間、合間に光っている。
で、同じ西でも、大阪の誰でも伝わる前提条件を無視した、底抜けに明るい笑いと、ここ、京都の笑いはまた違っていて、言ってみれば京都の笑いは、フランスや英国人のウィットによく似ていると思う。
京都の笑いっていうのは、わからない人は素通りだけど、情報通で事情通なひと、気づいた奴だけにはわかるというそんな笑いをさらっと会話の中に織り交ぜるのが粋。w
そして、東から見たら同じ関西なんやけども、大阪人と京都人は微妙〜に仲が悪い。w
お互いは、お互いに、あっちと一緒にしないで〜!!!って思ってる。w
大阪の人は京都人をこころにいちもつあるやつだと思い、京都人は大阪人をどこの馬の骨ともわからん雑多な野蛮人とみなす。w
そして、そういいながらもお互いに気になる存在、合理性があるとみなせば、手を結ぶことにする。それが京都人と大阪人。w
よそ者としては、これを眺めているのが非常に面白い。
それぞれの言い分には、たしかにそれなりの理屈があり、甲乙付け難く、なるほどなぁと思わせるものがたくさんある。
本当は絆があるのに、張り合ってる二人をみるようなもので、また味がある。
でも、人ごととして、笑っちゃいられないんだよね。東京人。
東京人は気づいてないけど、本当は、むちゃくちゃ日本の西半分から嫌われてるで〜〜〜〜〜!!!
私は東京出身なので、もちろん彼らは東京の悪口を言わないよう遠慮する。
しかし、私が東京人より中身が関西に近いことがわかり、東京適応障害(自分にロイヤルで高貴な病名をなづけてみました。w)になって、西に移ってきたことがわかると、西の人たちは、次々に「実は東京好きになれへん。なんど東京に行ってもあかん。」という東京での最悪な体験を次々に吐露してくれるのです。
そして、その話は、東京人視点から見ると、ああ、東京人なら、その無礼はさもありなん。というエピソードだらけで、出身地・東京が情けなく思えるのでありました。
東京に住んでいる人は、自覚した方がいいと思うので、ここにしたためる。
西側の東京への印象はこんな感じ。
・東京は、自分たちが都会人だと思いこんでるけど、大阪から見たら、むしろ東京は教養のない田舎者集団だと思える。(※京都・大阪は、庶民が判断力が高く、めっちゃ博学だったりする。)
・すべてが浅い。人間も浅い。上っ面しか大事にしない。必要なプロセスをすっ飛ばす。無駄なプロセスはたくさん積み重ねる。
・情がない。人間として大事なことを忘れてしまい、我が身可愛さの人間集団。持ってるもので人の信用度をはかり、人間性の中身をはからない。(※大阪・京都はお付き合いの中で地元に貢献し、信頼関係を蓄積してきた人間や何百年もつづく伝統という実績を信用する。見た目に惑わされないことが誇り。)
・飯がまずい。愛想がない。ドライ。値段だけが一人歩き。そして意地悪。
(う〜ん...これについては、東京のひとが、というよりも東京はあちこちの地方からやさぐれて出てきた人も多く集まっている場所でもあるので、東京人というか、東京に住んでいる人全体を指していうのだろうと思う。)
まぁ、実際に会話の中で聞いた、西の人間たちが東京に対して、思う印象はだいたいこんなところに集約される。w
でも西側は、これだけ東に辛口であっても、大事なことは実際ちゃんとやっているので、利権に囚われて口先だけで行動できない東を、こう思うのは当然だと思う。
そして、最近、ツイッターでこんな画像を見たときには、ああこれは自分が出会った、西側の一部のひとの特殊な意見ではないんだ〜、と改めて思い、ここまで東京が嫌われてると知って、めっちゃ仰天した次第。
都会人ぶってる東京人はみんな気がついてない。自分たちが、冷たくて浅い人間だとおもわれてるってことを。知らぬは東京人ばかり。
東京は、なんと日本の半分から嫌われてたんやで〜〜〜〜!!!!!
しらんかった〜!
首都だからってでかい顔するな〜!!
って西に思われてたんや〜〜!!!w
しかも的を得てる〜なにも言い返せへん〜!!!ww
(ツイッターからの出典)
これをみるとよくわかるんだけども、ぱっきり西と東で分かれてる。
天下分け目の戦い関ヶ原は、岐阜県。岐阜県のあたりから、西にむかって、多くの県民に東京が嫌われてる〜〜〜!!!w
そして、そっから東側は、vs大阪!!(西の代表はやっぱり福岡でなく、大阪か。)一部、京都?
東でも異色な結果となった福島県が山口県を恨むという理由は、戊辰戦争のときに、遺体を埋葬することを許さなかったせいだとされていて、歴史的に山口が嫌いなのだそう。(諸説あり)
千葉県が京都を嫌いな理由も陰湿なイメージ(京都が舞台になるサスペンス劇場のイメージから?)というような漠然としたもので明確な理由は千葉県民もわからないらしい。
でもこのマップを見ると、いまだに豊臣と徳川の戦いがあるんじゃないの?といってもいいような気がしない?
ね、日本列島に、未だに、西軍v.s東軍という構図は残っているんじゃないかと思えるよね。w
東京人の大阪人嫌いについては....大阪の個性(生命力)の強さが原因なのかなぁ??と心当たりを探る。
自分の東京人としての感覚からすると、西の実態を知るにつけ、なんだかんだいって大阪人は、東京人にかなり誤解をされていると思う。(逆に大阪人は、東京人の本質をよく見抜いていると思う。w)
東京では、基本的に、大阪の人は、押しが強い、厚かましい、馴れ馴れしい、お金にがめつい、と思っている人が多数いる。
そして、店をやってたりして、お客さんとしてやってきた大阪の人にいきなり値切られた、ときには「やっぱりな〜大阪。」と失笑する。
東京では概して、お金のことを口に出すのはタブー、金銭的にこだわらず、言い値で買うのが、かっこいいとされているからだ。
しかし、東京人がお金にクリーンかというとそうでは決してなくて、東京では、心の中では少しでも得したいとおもうけど、遠慮がちにいうならばともかく、基本的にそれを口に出したら恥ずかしいという暗黙の了解がある。
私も東京で暮らしてた時、見知らぬおばちゃんとバスの中で会話になって、お金のことを話題にしたら、お金のことを口にするなんて人格を汚すからやめなさい、と言われたことがある。(ちなみに、お金はニュートラルなもの。ようするに生命活動の軍資金なので、それを口にすることが悪いとは、私は全然思ってない。)
東京人の常識はそんな感覚だから、大阪の人が安いものを買って自慢する姿は、はしたないという評価になってしまうのだ。
たぶん、東京に限らず、東の方の県は、お金の損得に関して、身内ならともかく、普段から外で口に出すひとって滅多にいないんじゃないかな。
だからといって、西側がお金に執着が強くがめついのか、というと、これも真実ではないと思う。もちろん東西変わらずケチな人はケチだろうが、西でも気前の良い人はいる。
でも、西は、小さなところもきっちり管理しているということが周りへの信頼にもつながるので、これはこれ、それはそれ、とけじめをつけているような印象はある。いいかえれば、お金に関して律儀である。
西側と東側、どうしてこうも価値観が違うのか。
実は西の人へのレッテルは、東京の人の、日本の歴史に対する無知からくるとも言えると思う。
東と西の都市の成り立ちがそもそも違うということを意識してない。
ここで出てくる東日本で嫌われ県代表の、大阪・京都・近江といった関西圏は、基本的に商人の町である。歴史的に権力の中枢があったエリアなので、そこに生活インフラにかかわる商人がたくさん住んでいた。(ちなみに、名古屋も関西じゃないけど、ケチ呼ばわりされる理由は、同じ事情があると思われる。)
そして、今と同じように、昔から西は外国人が闊歩していて、多文化多人種だった。渡来人がいっぱい渡ってくるような場所だったし、主要な街道が通っていたこともあり、人の往来があり、賑わう町があった。
だから大阪、京都、近江などには、見た目に惑わされない、商人精神が育って行き、庶民の生活の価値観の土台になっていった。
そしてどんな社会であっても、よい商人にとって大切なことは、いいものをより安く仕入れるコスパ感覚である。
つまり物事のクオリティを図る意識である。
そしてコスパを考えるには、もののみきわめが大事になる。ものの価値を知るには、一に教養、二に教養である。
古ぼけた茶碗だとおもって簡単に、うちすてようとする人がいたとき、その茶碗が〜〜の作であり、骨董品として名品だとわかってるひとは、すかさず買いを入れるだろう。そのとき、買い手は自分の目利きに誇りを持つだろう。
関西人が安いもの(コスパの良いもの)を手に入れて自慢するのは、そういう心理に近い。
しかし、その判断力を持つには、日頃からの勉強力がものをいう。
だから、その昔、商人たちは、色々と習い事をしたりして、教養力をつけた。偉い人をよんだサロン(講)にでたりして、人のあり方や物の見方を学ぼうとしてきた。
だから、関西では、コスパをきちんと見極められる人、安く手に入れる手段を知っている人というのは、すなわち、ものをよく知る、判断力のある教養人とイコールなのである。商人にとって、お金を話題にすることはなんら恥ずかしいことではない。自分たちの生活そのものである。
商人にとって大事なのは、良い品を良い値段で流通に乗せ、社会を豊かにすること。そして、長期にわたって自分の商売が地域から愛され、子孫が食べていけること。
なので、当然「勝った、負けた」の損得勘定は、商人の遊びのような駆け引きを楽しむ掛け合いでもあり、関西人は、質の良いものを安く買えたときは、かしこさの証でもあるので、自慢する。
そして、売り手も社会に目利きの客が多ければ、下手なものは出せなくなる。需要と供給のなかで、商品やサービスのクオリティが保たれる。
だから、大阪はコスパが非常に良い商品で溢れているし、販売員が商品をよく勉強していて、合理的な販売トークで、買い手の時間をも節約してくれる。
さらに江戸時代までの商売というのは、人間関係の絆の深さ次第でものの値段が大きく変わり、今のように定価という概念がなかった。
だから、安く買えるということは、相手との特別な絆がものを言ったということでもあり、自営業の町では、安く買えたことは誇りになる。
一方、商人道文化などというものが、明治維新以降徐々に消えてしまった江戸を見てみよう!
歴史的に江戸は参勤交代の大名や役人たちが集まる、基本的には官僚や公務員のための都市である。地方大名は、藩の名誉を汚したくないので、ライバルを意識して、見栄を張る。だから、お金を基本、言い値で払う。
中央集権になって東京都に名前に変わってからも、田舎者と馬鹿にされたくないから、官僚の街、東京では、まけてくださいとはなかなか言えない。
だから東京には、お金のことを口にするのははしたないとされる文化土壌が微妙に出来上がっていったのだと思う。
役人が強い立場だった歴史を持つ「都」と、天皇・公家を背景に庶民が強い力やネットワークを作り上げていた「府」とでは、価値観が大きく違うのは当たり前なのである。
でも、官僚機構がめっちゃ強くなって縛りがきつくなってきた東京社会に対抗するには、東京人も庶民の街、大阪・京都の県民性を見習って生きる必要性が出てきたと思う。
なりふり構わず、合理性、全員にとっての良いこと、人情が堂々と要求できる県民性を見習った方がいいと思う。
そして、商人のもののみきわめを大切にする精神文化は、外側にこだわらず本質をきちんと測る目を育てているので、基本的に賢くて、国の朝三暮四のやりくちにすぐに気がつく。
このように、お上の言うことを基本的になんでも受け身で従う公務員の街・東に対して、商人の町・西の人は、物腰柔らかであっても芯の部分では受け身ではない。
出会う人出会う人、西は自営業でなくても、自分でものを考えている人が非常に多く、自分なりの意見や生き方、ポリシーをもっているひとが圧倒的に多い傾向がある。
ブランドを身につけ、組織人として、いかに面倒ごとを避けるスマートな受け身人間に徹するかを努力する東京人のかっこよさに対し、みた目は破天荒だとしても、10%ダサさをわざわざ、抜け感つくって、いれていたとしても、人として大事な芯の部分はもってるぜ、という勇気を大事にする関西人のかっこよさ、という価値観の違いが、こうして生まれてくるのである.....。
個人的な感想として、自分は東京人だけど、西は居心地がよくて、人として共感できるのは圧倒的に西。
めちゃめちゃ後者の方が素敵だと思ってて、本来の日本人らしさを持ってるのは、なんといっても情の厚い関西人だと思ってる。
その濃い人情にはマジでよく痺れてる。
(この嫌いな県の構図の中では、自分は東軍の裏切り者にあたるかもしれないが。w)
だってね、本当に西に来てから、感動することばっかりなんだよね〜。
先日、大阪の電車に乗ってたんだよ。
そしたら、もう今にも倒れそうっていう、重心が保てないような、
だいじょぶかいな?!
ってみてるだけで不安になるようなおじいちゃんが、杖ついてのってきたんだよね。そして、それを体の小さいおばあちゃんがなんとか支えてたんだよね。
よく外出するなぁ、って、他人事ながら、ハラハラするような老夫婦ね。
ところが、その老夫婦が電車にのってこようとしたのをみた大阪の強面のお兄ちゃんがね、さ〜っと近寄って、おじいちゃんの体を介助したんです。
まぁ、東京だったら目を合わせてはいけない。ヤバイひとや!って本能的に思って避けてしまうようなヤバイファッションのお兄さんよね。w
ところがその人が、ものすごくナチュラルにそのおじいちゃんの体を優しく支えて、おじいちゃんを手助けして席まで、そっとつれていったんだよね。
東京だったら、強面のお兄ちゃんは、基本的に、やっぱりみたまんまチンピラなんだよね。別にチンピラ風じゃない東京の男もたくさんいるけど、おそらく十中八九、そんな場面でも大概、スマホ見て無視すると思う。
なのに、その大阪の兄さんの動きは、親切に迷いがある東京のサラリーマンみたいな動きじゃなかった。このお兄ちゃんは、初めての手助けじゃなく、普段から毎日人を助けているような、そんなナチュラルな動きだったんだよ。
思わず、泣きそうになっちゃってさ。
まだ、こんなかっこいい大人がいたんだ、と思って、痺れたんだよなぁ。
大阪のひとは男気があって、野生感がある。
でも、見た目がどんなであっても、人情がある。相手の芯を見ようとする。
ザ・ファブルの世界が、まんまあったんだよね。
自分、チキンな東京人であることがつくづく嫌になった...
東京では、電車内でトラブルがあっても、みんなが無視するんだよね。
一生懸命スマホ見る。気づかないふりをする。
巻き込まれたら自分の身が危ないからだ。
そして、本当に精神的におかしくなってたり、加減を知らないやつも多いので、刃物沙汰になる可能性も潜んでいて、実際、みんな怖い。
だから、もし側で痴漢にあってる女子学生がいたとしても、現場ではきっと助けない人の方が多いと思う。
会社に遅れたくない。
面倒に巻き込まれたくない。
逆恨みされたくない。
そこには、いろんな卑怯な気持ちがあると思う。
だから、やさしいひとっていっても、東京では、すべての物事が終わった後、被害者に辛かったね〜大丈夫?って慰める奴はいると思うわ。w
被害に遭ってる最中に勇気出して手助けする奴が優しいのか、被害にあってから慰める人が優しい奴なのか、どっちだと思う?
そんな違いが大阪と東京であきらかにあると思う。
東京で育つなかで、自分は、社会ではそんなの大人のずるさをずっとみて育った。だから、こういった傾向はたまたまの傾向ではないと思う。
そして自分も妊婦の時、たってるのがつらくても、東京で実際に席を譲ってくれる50代以上のおじさんはゼロだったよ。
弱いのと優しいのは、ちがうんだよね。
東京の男は、優しいんじゃなくて、大方、弱いんだよ。
西で今、自分が目にする男たちというのは、大半が、危険が迫った時、女性やこどもを本能的に庇おうとする男が多い。
ちなみに大阪では、電車の中でトラブルが大きくなる前に、仲裁に入ろうとする人がまだいたりする。見た目は怖くても、人として大事な部分を失ってない人がまだこんなにもいるんや!っていう場面をいろんな形で見せられて、なんだか涙が出てしまい、すごいな、大阪と本当に思う。
すべてがそんな男ばかりとはさすがにいえないけど、分布図的に言えば、関西には、勇気のある男がたくさんいるんだよ。
それとね、関西のひとは、男も女も、若い子もお年寄りも、本当に子供に優しい。子供の気持ちを大切にしようとする人が多い。
自分の実体験だけど、東京では子供が泣くとみんなイライラする。老人まで、みんな顔をしかめるような現実がある。
あるとき自分がバスに乗ってたら、2歳くらいまでの赤ちゃんをつれた若いママが乗ってきて、お母さんは、赤ちゃんを一生懸命あやすんだけど泣き止まなかったんだよね。
そしたら、バスの乗客のおばちゃんが、その母親に
「親のくせに、子供黙らせられないの!!この鳴き声!迷惑!いい加減にして!!」って、徹底的に怒鳴りつけたんだよ。
その時、バスの運転手は無視。
そして、その母親は自分が降りる時に、乗客に向けて、深々と頭を下げて、「大変不快な思いをさせてしまい、申し訳ありませんでした」って半泣きで謝って降りていったんだよね。
自分が若い時の話だけど、今だったら自分はそのおばちゃんと大げんかしたと思う。
「お前も昔、あかちゃんだっただろ〜泣いたことないんかい!!」って。
でも、これが東京では当たり前なの。そしてそれに対して誰も何も言わない。面倒トラブルは無視するに限る。
運転手ですら何も言わない。これが東京の現実なんだよ。
もはや、魑魅魍魎の跋扈する東京、人の住むとこじゃないよな。
一方、京都。
京都はこんなことはじめてる。
We love 赤ちゃんプロジェクト。
これを見た時には本当にびっくりした。
京都市を陰湿で意地悪な市民とか、洛中と洛外を差別する優生思想の持ち主とか今だに思っている他県民全員に言いたい。
実態は、真逆やで!!
京都市は基本、めっちゃ家族や人情大事にする、地域大切にする人たちの街。
京都は子育て世代を応援するプロジェクトを今、あちこちで積極的にやってる。「ないてもかましまへん」というシールをあちこちの公共の場所で目にしたときは、本当に心が熱くなった。
子供が泣いて迷惑をかけるからって、公共交通を避けて自家用車で移動するしかなかった、あの東京での肩身の狭い子育てを思い出すよ....。
でも京都は、赤ちゃんが泣いたからといって、怒り出す人はいない。
怒る人が逆に奇異な目で見られる。
そんな場面で、京都では、泣いてる子供を、見知らぬおじさんが母親と一緒に一生懸命あやしてくれたりする。
第一、もし東京のように若い母を叱るケースがあったとしたらだけど、多分、市バスの運転手が、まず怒った人をアナウンスで
「赤ちゃん泣くのは当たり前です〜そんなことでおこらんでください。」
と注意すると思う。
万が一、運転手が何も言わなかったとしたら、こころある乗客が立ち上がって「気にせんでええよ!ほっとき!」とつぎつぎと若い母親のために味方になると思う。京都市で暮らしてると、それについてだけは妙な確信がある。
今の東京がいかに、自分よりも弱い立場の者に対して心が冷たく、自分の利益にしか関心がないところなのか、っていうのが、よくわかると思う。
だから西の人が東京へ行くと、鬱になってしまうんだよね。
ほんとうに、冷たい。東京は。じぶんかわいさが蔓延している。
これは氷山の一角でもあって、京都の人に人の心をとりもどさせてもらったエピソードは本当にたくさんあって、所詮はよそ者の東京人の自分ではあるんだけど、お返しになるかすらわからへんけど、こういう現実を目の当たりにして、自分も自分にできることで何か、京都に貢献しようと強く思うようになった。
それでたまにだけど、市バスと外国人のために、自発的に通訳してるんだ。
観光客がしょっちゅう乗ってくるけど、バスの乗り方・おり方がわからない外国人がいて、バスがそこで立ち往生してしまうときがあるから。
運転手さんが伝えきれない時とかは、運転手さんも時刻表通りに進めなくて焦ってくるし、自分が出ていって、とりあえず双方の意思疎通を図る係をかってでてるわけよ。
もちろん、英語検定試験なんてやったら、やばい点数がでるかもしれないと恐れるくらい、英語が流暢とか、自信があるとかいうわけじゃないけど、誰も話せへん、外国人も伝えられへんって状態を打開するくらいの語学力は一応あるので、この際、うまいかどうかは二の次で、要求がシンプルに伝わるかだけで互いに十分だと思うからやらせてもらってる。
店員さんと外国人という言葉通じないシチュエーションもいっぱいあって、店の人との間にたったりすることもある。
立派なことやってるわけじゃないけど、まぁ、一応、役に立ってると思う。
そこに、京都での居場所を感じてもいる。
そして、そういう姿をみせること自体が、子供への本物の国際教育・英語教育だと思うんだよね。英語は勉強じゃない、能力の優劣とは全く関係ない。単に、ひととひとの心を繋ぐためのツールなんだって、いつも子供には教えてる。
だから子供も小学生ながら、観光客と話をして、バスに乗る手助けをしたり、観光スポット教えてあげたりしてて、外国人にそういうことで心から喜んでもらえるから、語学のうまさ下手さはともかく、お互いにハッピーになるし、それがモチベーションになって、もうちょっとがんばろう、と思ったりもする。「そういえばあれって、英語でなんて言えばいいのかな」って、ちょこっと語彙を増やすきっかけにもなる。
正確に話せてるかどうかなんて重要じゃない。
目の前に困ってる人がいるから、英語の使える知識を総動員して助けてあげようとするだけなんだよね。
随分話せるようになった自分には、びっくりしてる。
鳳閣星・調舒星って、伝達の星でしょ。
伝達って、手助けの星なんだよね。
つまり、本能的に相手に何かしてあげたい、相手の役に立ちたい、っておもう純粋な気持ちが、人が言葉を発する原動力なんだと思うんだよね。
だから勉強としての語学は、相手を救わない。
自分を楽にして、相手も楽にする関係性の中でこそ、語学はきっと上達するんだよ。
生活上の細かいゴタゴタはいろいろあるものの、周りの人間が好きだと思えること、誇りを持てることって、自分の人生の感じ方がこんなにもちがうものなんだな、と思った。
西の暮らしは、こんな感じで、とにかく何もかもが面白いです。
そして、忘れかけていたものを思い起こさせてくれる、感動シーンがいっぱいです。人との距離感が近いので、すごくほっとします。
関西人にとっては当たり前かもしれないけど、こんな人たちがまだいるなら、日本を大事にしたいなって、改めて思えるんですよね....
東に疲れたら西に来るといいですよ。
皆さんも、おいでやす、京都。w