お彼岸の季節の彼岸とは「彼(か)の岸」、すなわち「さとりの世界」を表し、いのちの向かうべき方向を示しています。ところが、お葬式の弔辞や弔電を聞いていますと、いのちの行く末がさまざまな言葉で表現されています。
「草葉の陰」はお墓のイメージでしょうか。「葬」の字は草の上に死体を載せてその上に草が生えるイメージと聞いたことがあります。「天国」は、仏教では六道輪廻(ろくどうりんね)の迷いの境涯。なかでも一番上の「非想非非想処天(ひそうひひそうしょてん)」の別名が「有頂天(うちょうてん)」で、あとは堕(お)ちるしかない世界とされています。
「黄泉(こうせん)の客」の黄泉はヨミの国、亡くなったイザナミノミコトを追いかけて行ったものの、ウジがわき腐って醜い姿になっているのに驚いて、イザナギノミコトが一目散に逃げ帰って来た世界。ケガレを落とすために海水でミソギをしたことから、清め塩の風習が生まれたという説もあります。
「ご冥福を祈ります」の冥福は、冥土(めいど)の幸福。冥土とは冥(くら)い世界、冥い世界の幸福ってどんな幸福なんだろうか、冥福の祈り方を知っている人はいるのだろうか、などなど考えれば考えるほど、一般的にはあまり良い世界には行けないことになっているのだと思います。
そんな中で有り難いことに、私たち念仏者に示された阿弥陀如来の極楽浄土は「無量光明土」、光り輝くさとりの世界とされています。まことに願うべきは極楽浄土ですね。
会いたい夢でもいい
さて、数年前ですが、テレビの報道番組を見ていました。小学1年生の男の子が殺された事件からちょうど1年ということで、番組の中で事件の経緯が流され、リポーターが被害者のおばあさんのお宅を訪ねてマイクを向け、いろいろと尋ねています。その中でリポーターが「お孫さんの夢を見ますか」と尋ねました。するとおばあさんは「夢でもいいから、もう一度会いたい」と、消え入りそうな声で答えていました。
「夢でもいいから、もう一度会いたい」
その言葉から、おばあさんの万感の思いが伝わってきました。このおばあさんは「孫の夢を見たい」と単純に言っているのではありません。「もう一度孫に会いたい」というやるせない思いが、「たとえ夢であっても、もう一度会いたい」という言葉になって表れているのだと思いました。
お釈迦さまは私たちの現実を「一切皆苦(いっさいかいく)」と示し、さらにその苦の内容を生(しょう)・老(ろう)・病(びょう)・死(し)の四苦、さらには愛別離苦(あいべつりく)・怨憎会苦(おんぞうえく)・求不得苦(ぐふとくく)・五蘊盛苦(ごうんじょうく)を加えた八苦に分類されました。
孫を殺された祖母の苦しみは愛別離苦、どんなに愛しく思い、どれほど一緒にいようと思っていても別れていかなければならない苦しみそのものです。
子どもを亡くした親が「うちの子はどこへ行ってしまったんでしょう」と尋ねるとき、本当はどこへ行ったかが問題ではないのだろうと思います。「私も同じところへ行きたい」「どうしたら子どもと同じところへ行けるのか」が問題なのでしょう。
先立って逝(い)った者と、今ここに生きている私が再び会えるのか、同じ世界に生まれることができるのかということが、私たちにとっての大問題なのです。
阿弥陀さまは私たちの苦悩の現実を見抜かれて、あらゆる衆生をもらさず生まれさせることのできる世界として極楽浄土をご用意くださいました。
「倶会一処(くえいっしょ)」――倶(とも)に一つの処(ところ)で会える世界として、お浄土の存在をお聞かせいただかなければ、私たちは安心して人生を歩んでいけないのではないでしょうか。
お念仏のみ教えは、一生涯を精いっぱい生き抜いた一人のお方が、この世の命を終えるとともに、お浄土に生まれて仏さまとしての歩みを始められていると受け止めて、敬いの心でお見送りすればよいのだと教えてくださいます。
見送る側の私もまた、故人と同じく阿弥陀さまのはたらきで浄土に生まれ仏になるべきいのちをいただく者として、自らの生き方を仏さまの教えに学びながら、残りの人生を精いっぱい歩ませていただきたいものです。