言葉にできない違和感
カウンセリングルームに入ってきたユリコは、落ち着かない様子でソファに座った。目の前のテーブルに置かれた水のグラスを見つめ、しばらく黙っていた。
「今日は、何を話しに来られましたか?」
ダイキが静かに尋ねると、ユリコは小さく息を吐いた。
「あの......私、自分がおかしいんじゃないかって思うんです」
「おかしい、というのは?」
「パートナーのこと、疑ってばかりで......」
ユリコは言葉を探すように視線を落とした。
「何か具体的に、心配になるようなことがあったんですか?」
「それが......何もないんです。証拠なんて何もない。でも、なんか......おかしいって感じるんです」
ユリコの声は小さく、自分でも確信が持てないような口調だった。
「おかしいって感じる、その『なんか』について、もう少し教えてもらえますか?」
ユリコは少し考えてから、ゆっくりと話し始めた。
「最近、彼が携帯を見てる時の様子が......なんていうか、前と違う気がするんです。私が近づくと、さっと画面を消したり。あと、帰りが遅くなることも増えて......」
「それは、いつ頃からですか?」
「数ヶ月前からかな......最初は気のせいだと思ってたんです。でも、だんだん気になって」
ユリコは自分の手を見つめた。
疑うことへの罪悪感
「疑いたくないんです。彼のこと、信じたいのに......」
ユリコの声が震えた。
「でも、頭の中でずっとぐるぐる考えちゃって。『もしかして?』って。そう思う自分が嫌で......」
「疑うこと自体に、抵抗があるんですね」
「はい......だって、証拠もないのに疑うなんて、失礼じゃないですか。もし何もなかったら、彼を傷つけるだけだし」
ダイキは静かにうなずいた。
「ユリコさんは、彼を傷つけたくないんですね」
「そうなんです。だから何も言えなくて......でも、不安は消えなくて」
ユリコは両手で顔を覆った。
「私、おかしいですよね。疑い深いっていうか......被害妄想なのかな」
「ユリコさん、その『なんかおかしい』って感じる感覚について、もう少し詳しく聞かせてもらえますか? どんなときに、一番強く感じますか?」
ユリコは少し考えた。
「......夜、一緒にいるときかな。話してても、上の空というか。前は私の話をちゃんと聞いてくれてたのに、最近は『うん、うん』って適当に返事してる感じがして」
「それを感じたとき、ユリコさんの中では何が起きてますか?」
「......胸がざわざわして、落ち着かなくなります。『何か隠してるんじゃないか』って」
心が警戒する理由
ダイキは少し間を置いてから、静かに尋ねた。
「ユリコさん、その『ざわざわする感じ』って、いつから人生の中にありました?」
ユリコは驚いたように顔を上げた。
「え......?」
「今回が初めてですか? それとも、似たような感覚を感じたことが、過去にもあったでしょうか」
ユリコは考え込んだ。しばらくして、小さな声で答えた。
「......あります。昔、付き合ってた人が......」
言葉が途切れた。
「その人のことは、話したくなければ無理に話さなくても大丈夫ですよ」
「いえ......たぶん、関係あるのかもしれない」
ユリコは深呼吸をした。
「その人は、浮気してたんです。私が気づいた時には、もうかなり深い関係になってて......」
「それは、辛かったでしょうね」
「はい......でも、あの時もこんな感じだったんです。証拠はないけど、『何かおかしい』って。結局、その勘は当たってたんですけど」
ユリコは苦しそうに笑った。
「だから今も、また同じことが起きてるんじゃないかって......」
「その経験があるから、今の『ざわざわ』が余計に怖いんですね」
「そうなんです。でも......今の彼は、前の人とは違うはずなのに」
ダイキは静かに頷いた。
「ユリコさん、人間には不思議な能力があるんです」
「能力......ですか?」
「はい。特に、大切な関係性の中での『何かおかしい』を察知する能力。これは、実は人間が生き延びるために進化の過程で身につけてきたものなんです」
ユリコは戸惑ったような表情を見せた。
進化が残した「アンテナ」
「私たちの祖先は、集団で生活していました。その中で、誰が信頼できて、誰が裏切る可能性があるか。それを見抜く力がない人は、生き延びることが難しかったんです」
「......それと、今の私の不安と、どう関係があるんですか?」
「私たちの心は、大切な相手の行動の変化に、とても敏感なんです。表情、声のトーン、視線、距離感......意識しなくても、無数の情報を拾っている」
ユリコは黙って聞いていた。
「特に、パートナーとの関係では、その感受性が高まります。なぜなら、関係の安定は、生存や子孫を残すことに直結していたから」
「じゃあ、私が感じてる『何かおかしい』っていうのは......」
「被害妄想でも、疑い深いわけでもない可能性があります。あなたの心が、何か『普段と違うパターン』を検知しているのかもしれない」
ユリコの目が少し見開かれた。
「でも......それって、当たってるってことですか? 彼が本当に......」
「いいえ、そうとは限りません」
ダイキは落ち着いた声で続けた。
「心のアンテナは、『変化』を検知しているだけなんです。その変化が何を意味するかは、まだわからない。仕事で悩んでいるのかもしれないし、体調が悪いのかもしれない」
「......」
「大事なのは、その感覚を『おかしい』と否定しないこと。ユリコさんの心は、何かを感じ取っている。それを認めることが、最初の一歩です」
感じることを許す
ユリコは涙をこらえるように、唇を噛んだ。
「でも......もし私の勘が外れてたら、彼に申し訳ないです」
「ユリコさんは、自分の感覚よりも、彼の気持ちを優先してるんですね」
「......そうかもしれません」
「もし今、ユリコさんが感じていることを、彼に正直に伝えるとしたら、何が怖いですか?」
ユリコはしばらく考えた。
「......嫌われることかな。『信じてないのか』って言われたら......」
「それは、とても怖いですよね」
「はい......でも、何も言わずにこのままでいるのも、しんどくて」
ダイキは静かに頷いた。
「ユリコさん、一つ質問してもいいですか?」
「はい」
「もし、彼が本当に何も隠していなかったとして。ユリコさんが『最近、何か悩んでる? 心配してるんだ』って聞いたら、彼はどう反応すると思いますか?」
ユリコは考え込んだ。
「......たぶん、『大丈夫だよ』って言うかな。でも、心配してくれてるんだって、嬉しいかも」
「そうですよね。疑うことと、心配することは違う」
「......ああ」
ユリコの表情が少し和らいだ。
「私、彼を疑ってるんじゃなくて......心配してるんだ」
「そうかもしれませんね」
自分の感覚を信じる
ユリコは深く息を吸った。
「でも、もし......もし本当に何かあったら、私、どうすればいいんだろう」
「それは、その時に考えればいいと思います。今は、まだわからない」
「......」
「ユリコさん、一つだけ覚えておいてほしいことがあります」
「なんですか?」
「あなたの感じている『何かおかしい』という感覚は、間違ってない。それは、あなたを守るために存在しているアンテナなんです」
ユリコは目を伏せた。
「でも、そのアンテナが反応してるからといって、必ずしも『裏切り』があるわけじゃない。大切なのは、その感覚を無視しないこと」
「無視しない......」
「はい。自分の感じていることを、『おかしい』と否定せずに、『何かを感じてるんだな』と認めてあげる」
ユリコは小さく頷いた。
「その上で、どう行動するかは、ユリコさんが決めればいい」
「......話してみようかな。彼に」
「どんな風に?」
「『最近、何か疲れてない? 私、心配してるんだ』って......そんな感じで」
「いいですね」
ユリコは少し安心したような表情を見せた。
「もし、それで何か話してくれたら、それはそれでいいし......もし、やっぱり隠してることがあったとしても、少なくとも私は自分の気持ちに正直になれた気がします」
「そうですね。どちらに転んでも、ユリコさんは自分の感覚を大切にしたことになる」
心の声を聞く
セッションの終わりが近づいてきた。ユリコは、来た時よりも少し表情が明るくなっていた。
「ダイキさん、一つ聞いてもいいですか?」
「どうぞ」
「この『心のアンテナ』って......信じすぎるのも、危ないですよね?」
ダイキは微笑んだ。
「いい質問ですね。そうです、アンテナは『変化』を検知するけど、それが何を意味するかは、冷静に考える必要がある」
「じゃあ、どうバランスを取ればいいんですか?」
「感じることと、考えることの両方を大切にすることです。感覚を無視せず、でも、それだけで決めつけない」
「......なるほど」
「ユリコさんは今日、自分の感じていることを言葉にしました。それだけでも、大きな一歩です」
ユリコは静かに頷いた。
「ありがとうございます。なんか......少し楽になりました」
「それは良かったです」
ユリコはゆっくりと立ち上がった。
「帰ったら、彼と話してみます。怖いけど......でも、このままでいるよりはいい気がする」
「応援してます」
ユリコは小さく笑って、部屋を出て行った。
ダイキは、ユリコの後ろ姿を見送った。
人間の心には、何千年もの進化が刻み込んだ「警戒のシステム」がある。それは時に、私たちを守り、時に、不安を生み出す。
大切なのは、その声を無視せず、でも、それに支配されないこと。
自分の感覚を信じながら、冷静に向き合うこと。
それが、関係を守るための、最初の一歩なのかもしれない。