「もう失敗できない」という呪縛
カウンセリングルームのドアを開けて入ってきた彼女は、一見すると落ち着いた雰囲気の女性だった。きちんとした服装、整った髪型。しかし、椅子に座ると、手元のハンカチを何度も握りしめる仕草が、内側の緊張を物語っていた。
クライエント「初めまして。今日はお時間をいただき、ありがとうございます」
ダイキ「こちらこそ、ありがとうございます。今日はどんなことをお話ししたいと思って来られましたか?」
少しの沈黙があった。彼女は視線を窓の外に向けながら、ゆっくりと口を開いた。
クライエント「実は...半年前に会社を辞めて、今は次のことを考えているんですが...なかなか決められなくて」
ダイキ「決められない、というのは?」
クライエント「何をするにしても、『これで本当にいいのか』って不安になってしまうんです。また失敗したらどうしようって」
彼女の声には、自分を責めるような響きがあった。
ダイキ「また、ということは...以前にも何か?」
クライエント「はい。これまでに3回、転職をしてきました。そのたびに『今度こそは』って思うんですけど、結局うまくいかなくて...」
そう言って、彼女は少し俯いた。
「失敗」という記憶
ダイキ「3回の転職、それぞれどんな理由だったんですか?」
クライエント「最初は...人間関係ですね。上司と合わなくて。2回目は、業界自体が自分に向いていないと感じて。3回目は...」
言葉が途切れた。ダイキは待った。
クライエント「3回目は、体調を崩してしまって。毎日、朝起きるのが辛くて、気づいたら会社に行けなくなっていました」
ダイキ「それは辛かったでしょうね」
クライエント「でも、結局私が弱かったんだと思います。周りはみんな頑張ってたのに、私だけが...」
ダイキは彼女の言葉の中に、自分を責める強い力を感じ取った。
ダイキ「『弱かった』と思われているんですね。でも、3回転職されたということは、その都度、何か新しいことに挑戦してこられたということでもありますよね?」
クライエント「...そうかもしれませんけど、でも結局続かなかったじゃないですか。それって、失敗ですよね」
ダイキ「『失敗』という言葉、よく使われますね」
クライエント「え?」
ダイキ「さっきから何度か『失敗』とおっしゃっていますが、その『失敗』って、具体的にはどういうことを指していますか?」
彼女は少し考え込んだ。
クライエント「...続けられなかったこと、でしょうか。最初に思い描いていたようにならなかったこと」
完璧な未来図という幻想
ダイキ「最初に思い描いていた通りにならなかったから、失敗だと」
クライエント「そうです。だから今度こそ、ちゃんと計画を立ててから動きたいんです。でも、完璧な計画が立てられなくて...」
ダイキは少し前のめりになった。
ダイキ「完璧な計画って、どんなものですか?」
クライエント「えっと...例えば、この仕事を選んだら、5年後にはこうなっていて、10年後にはこうなっている、みたいな。リスクもちゃんと洗い出して、全部対策を立てて...」
ダイキ「なるほど。それができたら、動けそうですか?」
クライエント「...たぶん」
彼女の声は自信なさげだった。
ダイキ「『たぶん』なんですね」
クライエント「だって、どんなに計画を立てても、結局予想外のことが起きるじゃないですか。人間関係とか、会社の方針が変わるとか...」
ダイキ「そうですね。予想外のことは起きますね」
クライエント「だから、もっとちゃんと考えないと。もっと情報を集めて、もっと...」
言葉が途切れた。彼女は自分でも気づいているようだった。どれだけ考えても、「完璧」には辿り着けないことを。
ダイキはゆっくりと質問した。
ダイキ「今、半年間キャリアブレイク中ということでしたが、この半年、どんな風に過ごされていましたか?」
クライエント「ほとんど...情報収集です。本を読んだり、ネットで調べたり、いろんな仕事の可能性を考えたり...」
ダイキ「何か具体的に動いてみたことは?」
クライエント「...ないです。だって、まだ決められていないので」
ダイキは少しの沈黙を置いた。
「予測」と「コントロール」の違い
ダイキ「少し視点を変えて考えてみたいんですが...今おっしゃった『完璧な計画』って、つまり『未来を完全に予測する』ということですよね?」
クライエント「...そうですね」
ダイキ「でも、さっきご自分でもおっしゃったように、予想外のことは起きる。ということは...?」
クライエント「...完全には予測できない」
ダイキ「そうですね。じゃあ、予測できないものを予測しようとし続けると、どうなると思いますか?」
彼女の表情が少し変わった。何かに気づいたような。
クライエント「...ずっと動けない?」
ダイキ「そうかもしれませんね。ちょっと違う考え方を提案してもいいですか?」
クライエント「はい」
ダイキ「『未来を予測する』のではなく、『自分がコントロールできることに集中する』という考え方があるんです」
クライエント「コントロールできること...?」
ダイキは少し身を乗り出した。
ダイキ「例えば、今の○○さんがコントロールできることって、何だと思いますか?」
彼女は少し考えた。
クライエント「...自分がどう行動するか、ですか?」
ダイキ「そうですね。他には?」
クライエント「誰と会うか...何を学ぶか...」
ダイキ「そうです。一方で、コントロールできないことは?」
クライエント「...会社の方針が変わることとか、人間関係がどうなるかとか...」
ダイキ「そうですね。じゃあ、今○○さんは、どちらに多くのエネルギーを使っていますか?」
沈黙が流れた。彼女の目に、何か気づきの光が見えた。
クライエント「...コントロールできないこと、ですね」
小さな一歩から始まる変化
ダイキ「そうかもしれませんね。『5年後、10年後どうなるか』を完璧に予測しようとするのは、実はコントロールできないことにエネルギーを使っているとも言えます」
クライエント「でも、何も考えずに飛び込むのも怖いです」
ダイキ「もちろんです。計画を立てることは大切です。ただ...」
ダイキは少し間を置いた。
ダイキ「『完璧な計画を立ててから動く』のではなく、『今できる小さな一歩を踏み出してみる』という選択肢もあります」
クライエント「小さな一歩...」
ダイキ「例えば、気になっている仕事があるなら、いきなり転職を決めるのではなく、その分野で働いている人に話を聞いてみるとか。短期のプロジェクトに参加してみるとか」
クライエント「...それなら、失敗しても傷は浅い?」
ダイキ「そういう面もありますね。でも、もっと大事なのは...」
ダイキはゆっくりと言葉を選んだ。
ダイキ「実際に動いてみると、予想していなかった出会いや発見があるんです。それが次の道を開くこともある」
クライエント「予想していなかった...」
ダイキ「そう。計画通りにいかないことを『失敗』と呼ぶのではなく、『予想外の発見』と捉えることもできます」
彼女の表情が少しほぐれた。
クライエント「...でも、それって運次第じゃないですか? 運が良ければいい出会いがあるし、悪ければ...」
「運命」ではなく「偶然を活かす」
ダイキ「『運』という言葉が出ましたね。運命論的に考えると、確かに『どうなるかは運次第』になってしまいます」
クライエント「違うんですか?」
ダイキ「少し違う見方もできます。偶然起きた出来事を、どう活かすか。それは、自分でコントロールできることなんです」
クライエント「...偶然を活かす?」
ダイキはうなずいた。
ダイキ「例えば、これまでの3回の転職で得たものって、何かありますか? 計画通りにいかなかったかもしれないけど」
彼女は少し考え込んだ。
クライエント「...色々な業界を見られたこと、でしょうか。営業もやったし、企画もやったし...」
ダイキ「そうですね。他には?」
クライエント「人間関係で悩んだからこそ、どういう環境が自分に合うのか、分かってきた気はします」
ダイキ「それって、最初から計画していたことですか?」
クライエント「...いえ、結果的に」
ダイキ「そう。結果的に得られたもの。それが、『偶然を活かす』ということなんです」
クライエントは少し目を見開いた。
クライエント「...つまり、失敗だと思っていたことも、実は何かを得ていた?」
ダイキ「どう思いますか?」
彼女は少し考えてから、小さく頷いた。
クライエント「...そうかもしれません」
「失敗」という言葉の罠
ダイキは少し姿勢を変えた。
ダイキ「さっき、『失敗』という言葉についてお聞きしましたよね。実は、『失敗』という言葉には罠があるんです」
クライエント「罠...?」
ダイキ「『失敗か成功か』という二択で考えてしまうと、途中のプロセスが見えなくなるんです」
クライエント「...どういうことですか?」
ダイキ「例えば、3回目の職場で体調を崩して退職されたこと。それを『失敗』の一言で片付けてしまうと、そこで何が起きて、何を学んだのかが見えなくなります」
彼女は静かに聞いていた。
ダイキ「実際には、『体調を崩すまで頑張ってしまう自分の傾向に気づいた』とか、『無理をし続けると身体が悲鳴を上げることを学んだ』とか、いろんなことがあったはずです」
クライエント「...確かに」
ダイキ「それって、次に活かせる大切な情報じゃないですか?」
クライエントは少し俯いて、自分の手元を見つめた。しばらくの沈黙の後、彼女はゆっくりと顔を上げた。
クライエント「...ずっと、『またダメだった』としか思っていませんでした」
ダイキ「そうだったんですね」
クライエント「でも、確かに...学んだことはあります。どういう時に自分が無理をするのか、どういう環境だと息苦しくなるのか...」
彼女の声に、少し力が戻ってきた。
ダイキ「それって、これからの選択をする上で、すごく大事な情報ですよね」
クライエント「...はい」
動き出すための「許容できる損失」
ダイキ「さっき、『小さな一歩』という話をしましたが、もう一つ大事な考え方があります」
クライエント「なんでしょう?」
ダイキ「『もし失敗したとして、自分が許容できる損失は何か』を先に決めておくんです」
クライエント「許容できる損失...?」
ダイキ「例えば、新しいことを試してみるとして、『3ヶ月やってみてダメだったら引き返す』とか、『この金額まではお金をかけていい』とか」
クライエント「...先に、引き際を決めておくということですか?」
ダイキ「そうですね。『完璧な成功』を目指すのではなく、『この範囲なら試してみていい』という枠を決める」
彼女は少し考え込んだ。
クライエント「でも、それって...最初から失敗を想定しているみたいで、なんだか後ろ向きじゃないですか?」
ダイキ「そう感じますか?」
クライエント「はい。やるからには成功したいし...」
ダイキ「もちろん、成功を目指すのは大事です。でも...」
ダイキは少し間を置いた。
ダイキ「『絶対に成功しなければならない』と思うと、一歩も踏み出せなくなりませんか?」
彼女はハッとしたような表情を見せた。
クライエント「...確かに、今の私がそうです」
ダイキ「『ここまでなら試してもいい』という線を引くことで、実は動きやすくなるんです。そして、動いてみることで、また新しいことが見えてくる」
クライエント「...動いてみないと、見えないこと?」
ダイキ「そうです。机の上で考えているだけでは分からないことが、たくさんあります」
彼女は少し前を向いた。
今、ここから始められること
ダイキ「今日、ここに来られる前、何か期待していたことはありますか?」
クライエント「...正直、答えを教えてもらえるかなって思っていました。『こうすればいいですよ』みたいな」
ダイキ「そうだったんですね。今はどうですか?」
彼女は少し笑った。
クライエント「答えは教えてもらえませんでしたね」
ダイキ「そうですね。でも...」
クライエント「でも、少し楽になりました。『完璧な計画を立てなきゃいけない』って、自分で自分を縛っていたんだなって」
ダイキは静かに頷いた。
ダイキ「今日の話を聞いて、何か試してみたいことはありますか?」
彼女は少し考えてから答えた。
クライエント「...実は、少し気になっている仕事があるんです。でも、自分にできるか分からなくて」
ダイキ「それについて、何か小さな一歩を踏み出すとしたら?」
クライエント「その分野の人に話を聞いてみる、とか...?」
ダイキ「いいですね。それなら、許容できる『コスト』はどれくらいですか?」
クライエント「コスト...時間と、あとは...もし断られたときの気まずさ、でしょうか」
ダイキ「それは許容できそうですか?」
クライエント「...はい。それくらいなら」
ダイキ「じゃあ、やってみる価値はありそうですね」
彼女は少し緊張した面持ちながらも、頷いた。
クライエント「...やってみます」
「運命」から「選択」へ
カウンセリングの終わりが近づいてきた。ダイキは最後に一つ、質問した。
ダイキ「今日の話を振り返って、一番印象に残っていることはありますか?」
彼女は少し考えてから答えた。
クライエント「『偶然を活かす』という言葉ですね。これまで、うまくいかないのは運が悪いからだって思ってました」
ダイキ「それが変わりましたか?」
クライエント「...少し。運が良い悪いじゃなくて、起きたことをどう捉えるかが大事なのかなって」
ダイキ「そうですね。そして、それは自分でコントロールできることです」
クライエント「はい」
彼女は立ち上がる前に、もう一度尋ねた。
クライエント「先生、私、結局どうなると思いますか?」
ダイキは少し笑って答えた。
ダイキ「それは、私にも分かりません」
クライエント「...ですよね」
ダイキ「でも、○○さんが今日から小さな一歩を踏み出して、起きたことを活かしながら進んでいけば、きっと何か見えてくると思います」
クライエント「...ありがとうございます」
彼女は深く頭を下げた。その表情には、来た時よりも柔らかさがあった。
ドアを開けて出ていく彼女の後ろ姿を見送りながら、ダイキは思った。完璧な未来図など、誰にも描けない。大切なのは、今の自分にできることに集中し、予想外の出来事さえも自分の糧にしていく柔軟さなのかもしれない。
「運命」に身を委ねるのではなく、偶然起きたことを自分のものにしていく。それが、人生を前に進める力になる。
あとがき
完璧な計画を立てようとするあまり、一歩も動けなくなる。そんな経験は、多くの人にあるのではないでしょうか。
カウンセリングで大切にしているのは、「答えを教えること」ではなく、「その人が自分で気づくこと」を支援することです。今回の対話でも、クライエントは自分で「完璧を求めていた」ことに気づき、「小さな一歩」という選択肢を見つけていきました。
人生には、予測できないことが必ず起きます。それを「失敗」と呼ぶのか、「偶然を活かす機会」と捉えるのか。その違いが、前に進める人とそうでない人を分けるのかもしれません。