「私、ダメ人間なんです」
カウンセリングルームに入ってきたユウコさんは、どこか緊張した面持ちだった。椅子に座ると、小さく深呼吸をして、ゆっくりと話し始めた。
ユウコ「あの......初めてなので、何から話せばいいのかよくわからないんですけど」
ダイキ「大丈夫ですよ。今、一番気になっていることから話していただければ」
ユウコさんは少し考えてから、絞り出すように言った。
ユウコ「私......自分がダメ人間すぎて、もう本当に情けないんです」
その言葉には、深い自己否定の響きがあった。
ダイキ「ダメ人間......ですか」
僕は、その言葉をそのまま繰り返した。ユウコさんは小さく頷いた。
ユウコ「はい。最近、仕事でミスばかりで。先週も書類の数字を間違えて、上司に指摘されました。その前の週も、資料のファイル名を間違えて保存してて......みんなに迷惑かけて」
言葉を続けるうちに、ユウコさんの声は少しずつ小さくなっていった。
ユウコ「昔はこんなことなかったんです。でも最近は......何をやってもダメで。朝起きると、『また今日もミスするんじゃないか』って思って、胸がギュッとなるんです」
そう言いながら、ユウコさんは自分の胸のあたりを手で押さえた。
「ダメ」って、どういうこと?
ダイキ「ユウコさんが『ダメ』って言うとき、具体的にはどんな状態を指していますか?」
ユウコさんは少し戸惑ったような表情になった。
ユウコ「え......? ダメは、ダメです。ミスをする、使えない人間っていうか......」
ダイキ「ミスをする人は、ダメな人間なんでしょうか」
ユウコ「......そうじゃないですか? ミスをするってことは、ちゃんと仕事ができてないってことで」
ユウコさんの答えは迷いがなかった。彼女の中では、それが「当然の事実」として存在しているようだった。
ダイキ「ユウコさんの周りで、ミスをしたことがある人っていますか?」
ユウコ「......います。同僚も、上司も、みんなミスはしますけど」
ダイキ「その人たちも、ダメな人間ですか?」
ユウコさんは言葉に詰まった。
ユウコ「......いえ、そんなことは......」
そこで初めて、彼女は自分の言葉の矛盾に気づいたようだった。少し困ったような表情で、視線を落とす。
ユウコ「でも、私の場合は違うんです。私は......もっとできるはずなのに、できていない。期待に応えられていないから......」
その声には、強い焦りと自責の念が混ざっていた。
体が教えてくれること
ダイキ「さっき、『胸がギュッとなる』っておっしゃいましたよね。今もそれ、感じますか?」
ユウコさんは、自分の体に意識を向けるように、少し姿勢を変えた。
ユウコ「......はい。なんか、ここが重くて」
再び胸のあたりに手を当てる。
ダイキ「それは、どんな感じですか? 重い? 締め付けられる? 熱い? 冷たい?」
ユウコ「......重くて、ギュッとしていて......苦しいです」
ダイキ「その感覚に、何か温度はありますか?」
少し不思議そうな顔をしながら、ユウコさんは内側に意識を向けた。
ユウコ「......なんだろう。冷たい、かも」
ダイキ「冷たくて、重くて、ギュッとしている。それは今、どのくらいの強さですか? 10段階で言うと」
ユウコ「......7、くらい、でしょうか」
僕は静かに頷いた。
ダイキ「その7の感覚が、『私はダメ人間だ』って思っているときに、いつもありますか?」
ユウコさんは、ハッとしたような表情になった。
ユウコ「......そう、です。いつも、この感じがあって......それで、ああ、やっぱり私ダメだって......」
そこで彼女は、自分の言葉の流れに気づいたようだった。
感情は「事実」じゃない
ダイキ「その胸の感覚が先にあって、『私はダメだ』という考えが後から来ているんですね」
ユウコさんは目を見開いた。
ユウコ「......え? そうなんですか?」
ダイキ「身体は、いろんなことに反応するんです。疲れているとき、緊張しているとき、不安なとき。そして、その身体の反応を感じたとき、私たちは『これは何だろう』って、頭で解釈するんですよ」
ユウコさんは、じっと僕の言葉を聞いていた。
ダイキ「胸がギュッとする。それ自体は、ただの身体の反応です。でも、それを感じたとき、ユウコさんの頭の中で『これは、私がダメだからだ』って解釈している」
ユウコ「......解釈......」
ユウコさんは、その言葉を噛みしめるように繰り返した。
ダイキ「もし、その同じ胸の感覚を、別の場面で感じたらどうでしょう。たとえば、大事なプレゼンの前とか」
ユウコ「......ああ、それも同じ感じがします。緊張して、胸がギュッとして」
ダイキ「そのときは、『私はダメ人間だ』って思いますか?」
ユウコさんは首を横に振った。
ユウコ「いえ......そのときは、『緊張してるな』って思います」
ダイキ「同じ身体の反応なのに、解釈が違う」
ユウコさんの表情が、少しずつ変わっていくのがわかった。何かが、彼女の中で動き始めている。
ユウコ「......じゃあ、私が『ダメだ』って思ってるのは......ただの、解釈......?」
その言葉は、疑問というより、驚きに近かった。
「ダメ人間」というレッテルの正体
ダイキ「ユウコさん、ミスをしたっていう『事実』と、『私はダメ人間だ』っていう『解釈』は、別のものなんです」
ユウコさんは、じっと考え込んでいた。
ダイキ「事実は何ですか?」
ユウコ「......書類の数字を、間違えた」
ダイキ「それだけですよね。でも、ユウコさんの頭の中では、それが『私はダメ人間だ』になっている」
ユウコさんは、ゆっくりと頷いた。
ユウコ「......そうですね。気づいたら、そう思ってました」
ダイキ「その解釈は、いつ頃から始まったんでしょう」
ユウコさんは少し考えた後、静かに答えた。
ユウコ「......多分、子どもの頃からです」
過去の声が、今を縛る
ユウコさんは、少し遠くを見るような目をしていた。
ユウコ「小さい頃、母が......すごく厳しい人で。テストで95点取っても、『なんで100点じゃないの』って言われました」
その声には、今でも消えない痛みが滲んでいた。
ユウコ「できて当たり前、できないのはダメ。そうやって育てられて......だから、ミスをするたびに、『ああ、やっぱり私はダメなんだ』って」
ユウコさんは、そこで言葉を切った。
ダイキ「その声、今でも聞こえますか」
ユウコ「......はい」
小さく、でもはっきりと、ユウコさんは答えた。
ダイキ「それは、お母さんの声ですか? それとも、ユウコさん自身の声ですか?」
ユウコさんは、ハッとしたような表情になった。
ユウコ「......どっちなんだろう。わからない、けど......でも、多分......」
そこで、彼女の目に涙が浮かんだ。
ユウコ「......多分、私、ずっと母の声を、自分の声だと思ってたのかもしれない」
その言葉は、彼女自身にとっても、大きな気づきだったようだった。
沈黙の中で起きること
しばらく、沈黙が流れた。
ユウコさんは、ハンカチで静かに涙を拭いていた。僕は何も言わず、ただそこにいた。
やがて、ユウコさんが口を開いた。
ユウコ「......なんか、不思議です」
ダイキ「どんなふうに?」
ユウコ「さっきまで、すごく胸が苦しかったのに......今、少し、楽になってる気がします」
そう言って、ユウコさんはまた胸に手を当てた。
ダイキ「今、どのくらいですか? さっき7だったのが」
ユウコ「......4、くらい、かな」
ダイキ「何が変わったんでしょう」
ユウコさんは少し考えてから、ゆっくりと答えた。
ユウコ「......わかりません。でも、なんか......自分を見る目が、ちょっと変わった、かも」
ダイキ「どんなふうに?」
ユウコ「今まで、『私はダメだ』っていうのが、絶対の真実だと思ってたんです。でも......それって、ただの......」
ダイキ「ただの?」
ユウコ「......ただの、思い込み、なのかもしれないって」
その言葉を口にした瞬間、ユウコさんの表情が少し柔らかくなった。
身体は嘘をつかない
ダイキ「もう一度、胸の感覚を感じてもらっていいですか」
ユウコさんは目を閉じて、静かに自分の内側に意識を向けた。
ユウコ「......はい。まだ少し、重い感じがあります」
ダイキ「その重さに、何か言いたいことがあるとしたら、何て言ってると思いますか?」
ユウコさんは、少し不思議そうな顔をしたが、そのまま感覚に集中した。
ユウコ「......『疲れてる』、かな。なんか、そんな感じがします」
ダイキ「疲れてる」
ユウコ「はい。ずっと......ずっと、頑張ってきて。で、疲れてるのに、まだ『もっと頑張らなきゃ』って......」
そこまで言って、ユウコさんは深く息を吐いた。
ユウコ「......ああ、そうか。私、疲れてるんだ」
その言葉には、ある種の安堵が混ざっていた。
ダイキ「疲れているとき、ミスって増えませんか?」
ユウコさんは、目を開けて僕を見た。
ユウコ「......増えます。確かに、最近ずっと残業続きで、休みも少なくて......」
ダイキ「じゃあ、ミスが増えたのは、『ユウコさんがダメだから』じゃなくて」
ユウコ「......疲れてるから、かもしれない」
ユウコさんは、自分の言葉に少し驚いたような顔をした。
ユウコ「なんか......同じ出来事なのに、見方が全然違う」
ダイキ「事実は一つです。でも、それをどう解釈するかは、ユウコさんが選べるんです」
新しい見方を手に入れる
ユウコ「でも......これから、どうしたらいいんでしょう。また『私はダメだ』って思っちゃいそうで」
ユウコさんの不安は、もっともだった。長年染み付いた思考パターンは、そう簡単には変わらない。
ダイキ「そう思ったとき、どうしますか?」
ユウコ「......どうしたらいいんでしょう」
ダイキ「さっき、やったこと、覚えてますか?」
ユウコさんは少し考えて、頷いた。
ユウコ「......胸の感覚を、感じる」
ダイキ「そうです。まず、身体の感覚に気づく。それが7なのか、4なのか。そして、その感覚に『何て言ってる?』って聞いてみる」
ユウコ「......身体に、聞く」
ダイキ「身体は正直です。『ダメだ』って解釈する前に、身体は『疲れてるよ』『休みたいよ』『不安だよ』って教えてくれる。それを聞くことで、『あ、これは事実じゃなくて、私の解釈なんだ』って気づけるんです」
ユウコさんは、ゆっくりと頷いた。
ユウコ「......なるほど。感覚を、事実として受け取る」
ダイキ「その通りです。『胸が苦しい』は事実。『私はダメだ』は解釈。この区別ができると、随分楽になりますよ」
一歩ずつ、自分を取り戻す
ユウコ「一つ聞いてもいいですか」
ダイキ「どうぞ」
ユウコ「これって......練習すれば、もっとできるようになりますか?」
ダイキ「なりますよ。最初はうまくいかないかもしれませんが、繰り返すうちに、自分の感覚と仲良くなれます」
ユウコさんは、少し安心したような顔をした。
ユウコ「じゃあ......朝、胸が苦しくなったとき、『ああ、また私ダメだ』じゃなくて、『今、この感覚は何を教えてくれてるんだろう』って、聞いてみます」
ダイキ「いいですね。それから?」
ユウコ「......それで、もし『疲れてる』って感じたら......無理しないで、少し休む、とか」
ダイキ「素晴らしい。自分の身体の声を聞いて、それに応える。それが、自分を大切にするってことです」
ユウコさんは、深く息を吸って、吐いた。
ユウコ「......なんか、できそうな気がしてきました」
その声には、さっきまでとは違う、小さな希望が混ざっていた。
終わりに向けて
セッションの終わりが近づいていた。
ダイキ「今日、何か一つ、持って帰れそうなものはありますか?」
ユウコさんは少し考えてから、笑顔を見せた。
ユウコ「......『私はダメ人間じゃなくて、疲れてる人間だった』って気づけたこと、かな」
その言葉には、ユーモアと、自分への優しさが混ざっていた。
ダイキ「それ、大事にしてください」
ユウコ「はい」
立ち上がったユウコさんの背中は、最初に来たときよりも、少し軽くなっているように見えた。
ドアを開ける前に、彼女は振り返った。
ユウコ「ありがとうございました。また来てもいいですか?」
ダイキ「もちろんです。いつでもどうぞ」
ユウコさんは小さく頷いて、部屋を出ていった。
窓の外では、午後の陽射しが優しく差し込んでいた。
カウンセラーからのメッセージ
「自分はダメだ」という思い込みは、事実ではなく、過去の経験から作られた解釈です。
身体の感覚に意識を向けることで、その解釈から一歩離れることができます。「胸が苦しい」という身体の反応は、「私はダメだ」という意味ではありません。「疲れている」「不安だ」「休みたい」というメッセージかもしれません。
感情と思考を区別し、身体の声に耳を傾けること。それが、自分を責める思考から自由になる第一歩です。
あなたは、決してダメな人間ではありません。ただ、そう解釈してしまう癖がついているだけです。その癖は、少しずつ、変えていくことができます。