【笑えないエッセイ】ゴールデン街の夜に、国家の天秤を思う―死刑制度をめぐる思索

【笑えないエッセイ】ゴールデン街の夜に、国家の天秤を思う―死刑制度をめぐる思索

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コラム
 夜の帳が下りた新宿ゴールデン街。グラスの触れ合う音に混じって、その夜は死刑制度の是非という重いテーマが議論の俎上に載せられていました。

 周囲に座る人々の多くは「死刑反対」の立場をとっており、熱を帯びた言葉が飛び交っていました。
 あるキリスト教の信奉者は、「人の命を奪うことは、どのような理由があっても決して許されない」と、まるでそれが揺るぎない一枚岩の真理であるかのように語っていました。
 確かに仏教にも「不殺生」という厳格な戒律が存在します。罪を憎んで人を憎まず、命の尊厳は等しく守られるべきだという彼らの主張は、切実で人道的な響きを持っていました。

 しかし、お酒の席の熱気のなかに、私は静かに別の視点を置いてみることにしました。
 それは決して命を軽んじるからではなく、別の角度からの「救い」と「秩序」を思索した結果です。
 まず根底にあるのは、仏教における「世間法(国家の法)」と「出世間法(仏法)」の分離という視点です。
 仏教とは本来、個人の心や生き方を説いたものであり、統治機構としての「国のあり方」にまで口を挟むべきではないという考え方です。そしてこの分離の精神は、何も仏教に限った話ではありません。
 近代国家の憲法が保障する「内心の自由」の原則にも、深く通ずるものがあると考えています。
 個人の心に宿る宗教的・道徳的な理想(=内心の自由)と、国家が治安維持や正義の実現(応報)のために敷いている法律とは、明確に区別されるべきものです。

 したがって、国家の法としての死刑を、個人的な戒律である「不殺生」と混同して批判する必要はないのではないか、という意見です。
 さらに「自業自得」や「因果応報」という仏教的な観点から見れば、他者の命を奪った者がその報いとして自らの命で償うことは、ある意味で宇宙の法(カルマ)に則っているという解釈も成り立ちます。
 現に、内閣府が発表した世論調査(2024年発表)でも、日本国民の約83.1%が「死刑もやむを得ない」と回答しており、この地には古くから応報の精神が息づいていることを物語っています。

 こうした背景を踏まえた上で、私は反対派の熱弁が続く酒席で、次のように語りかけました。

「日本は法治国家であり、どれほど凄惨な犯罪であっても、被害者やそのご家族が自らの手で報復すること、いわゆる『仇討ち』は法律で固く禁じられています。だとするならば、行き場のない被害者感情をしかるべき形で成就させるためにこそ、国家というシステムが存在するのではないでしょうか」

 国家がその強大な権力を行使し、法に基づいて人の命を奪うこと。それは一見すると冷徹に映るかもしれません。
 しかしそれは、民間人同士の血を血で洗う報復の連鎖を断ち切り、加害者にも被害者にも「私的な報復」という過酷な重責を背負わせないための、法治国家としての「重い責務」を果たしている姿なのだと私は思うのです。
 絶対的な「不殺生」を掲げる宗教的な言葉と、秩序と責任の重みを問う私の言葉。喧騒のなかで交わされた議論は、正解のない問いの深さを街の灯りに滲ませ、私はウイスキーをグイッと飲み干しました。

                          沙門蒼俊   合掌
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