言葉のオセロ

言葉のオセロ

記事
コラム
人から言われた言葉に、
傷つくことがあります。

特に、親しい人から言われた言葉ほど、
なぜか深く刺さったりします。

「どうして、
そんな言い方をするんだろう」

「もう少し、
オブラートに包んでくれてもいいのに」

「そこまで言わなくても……」

私はこれまで、
そんなふうに思うことが
何度もありました。

そんなとき、ある本で読んだ
哲学者ヤスパースの子どもの頃の話を
思い出しました。

ヤスパースは幼い頃から病弱で、
ほかの子どもたちと同じように遊ぶことが
難しかったそうです。

そんな彼に、友人が

「みんなはあそこで遊んでいるよ」

と声をかけます。

この言葉だけを聞くと、
少し冷たいようにも、
突き放しているようにも感じます。

けれど、その後を読んでいくと、
友人はヤスパースを
弱い人として扱っていたのではなく、
彼自身の強さを信頼していたのだと
知りました。

それを読んだとき、
私は自分がこれまで傷ついてきた言葉のことを
考えました。

私は親しい人から、
わりとはっきりと
物事を指摘されることがあります。

そのたびに、

「どうして、
そんな心ないことを言うんだろう」

と、
被害者のような気持ちになっていました。

でも、その言葉がなければ、
自分では気づけなかったこともあります。

親しいからこそ。
私なら受け止められると
思っているからこそ。

包み隠さず、
事実を伝えてくれていたのかもしれない。

そう思うと、
黒にしか見えなかった言葉が、
くるっと裏返って白に見えることがあります。

まるで、オセロのように。

もし、周りの人が全員、
私のすることを肯定してくれたら
どうなるでしょう。

気持ちはいいかもしれません。

でも、間違っていることにも気づかず、
いつか「裸の王様」に
なってしまうかもしれない。

反対に、
周りの人が全員、
否定する人ばかりだったら。

今度は自分まで自分を否定して、
生きる力を失ってしまうかもしれません。

だから、
どちらも必要なのだと思います。

「いいね」と言ってくれる人もいる。

「それは違うんじゃない?」
と言ってくれる人もいる。

その両方があるから、
バランスが取れる。

それが
「中庸」ということなのかもしれません。

もちろん、
傷つく言葉を何でも
「ありがたい」と思う必要はないと思います。

傷ついたなら、
傷ついたという自分の気持ちも大切にしたい。

ただ、少し時間が経ったあとで、
その言葉を一度、
くるっと裏返してみる。

「どうして、
この人はこんなことを言ったんだろう」

「この言葉の裏側には何があるんだろう」

そう考えてみたら、
黒だと思っていた言葉の中に、
白いものが見つかることも
あるのかもしれません。

言葉のオセロ。

言葉そのものだけではなく、
言う人の背景と、
受け取る人の背景。

その両方を少しだけ想像できたら、
見える景色も変わるのかもしれない。

私はそんなことを思いました。





サービス数40万件のスキルマーケット、あなたにぴったりのサービスを探す