薄暗い本堂で仏像と向き合うとき、私はいつもそのお姿のなかに、深い知恵を見出そうとしてしまいます。
なかでも、病気や心身の苦しみから人々を救うとされる「薬師如来」には、とても分かりやすい特徴があります。
それは、左手のひらに小さな「薬壺(やっこ)」を乗せていることです。万病に効く霊薬が入ったこの器こそが最大の目印。
そして、もう一方の右手は胸のあたりに掲げ、手のひらをこちらに向けています。これは「施無畏印(せむいいん)」と呼ばれ「恐れなくてよい」という安心のサインを示しているのだそうです。
仏教における他の有名な仏様――たとえば阿弥陀如来などは、私たちが旅立ったあとの「死後の世界(極楽浄土)」で人を救うことで知られています。
それに対して、薬師如来のまなざしは常に、私たちが「今生きているこの世界(現世)」に向けられています。生きている間の病や飢え、苦しみから今すぐ救い出すという強い誓いを持ったそのお姿は、仏の世界における、まさに「医療従事者」と言えるのではないでしょうか。
つまり、偉大な仏様であっても、奇跡のような加持力(かじりき)(念力)だけで病を消し去るわけではありません。最前線の医師や薬剤師のように、きちんと「お薬」を携えていらっしゃるのです。
そのお姿を見つめていると、ひとつのロジックが浮かび上がってきます。
右手が示す「安心しなさい」という薬師如来の想いは、まずは心身をリラックスさせ、今そこにある病を「受け入れなさい」と促しているのではないでしょうか。
そして、心が少し落ち着きを取り戻したところで「さあ、左手にあるお薬を飲みなさい」と、治療の手を差し伸べている。そんな風に思えてならないのです。
最近、サカナクションの山口一郎さんが、ご自身のうつ病の苦しさを赤裸々に語られている動画を拝見しました。私は山口さんのことをそれほど詳しく存じ上げているわけではありません。
しかし、その語りに耳を傾けた皆さんは、きっと様々な思いを抱かれたことでしょう。
「自分と同じ症状だ」と共感する方
「うつ病と必死に闘っているのだな」と感じる方
あるいは「病気を理解するために、たくさん調べられたのだろう」と。
その姿勢に胸を打たれた方もいらっしゃるかもしれません。
しかし、私には彼の言葉のなかで、どうしても心に引っかかるフレーズがありました。
「あんまりこう(薬を)飲みすぎちゃうっていうか、ちょっとずつ減らしてきてた、(薬を減らすことに)抵抗があったり……」
もちろん、私は医師ではありません。彼を否定する言葉はありません。
それでも、長くこの病と付き合ってきたからこそ。本当にわずかな言葉のニュアンスから、その奥にある焦りや葛藤が、感覚的に分かってしまうところがあります。
まずは病気を受け入れ、心身を養生し、そして適切に薬を服用する。それこそが回復への地道な歩みであるはずです。
しかし、今の山口さんの生き方を拝見していると、あまりにもご多忙で、リスケの利かない大仕事を抱え、マルチタスクのなかで呼吸をされています。
本当に「脳を休めている」状態と言えるのでしょうか。脳がそれほどの疲労を起こし、拒食傾向まで出ているというお話を聞いたとき、私が抱いたあの「引っかかり」は、ひとつの危惧へと変わっていきました。
第一線で輝き続ける彼にとって、仕事を減らすということは、自尊心を大いに傷つける決断でもあるはずです。
簡単に「休めばいい」と言えるほど、表現者の世界は甘くはないのでしょう。
しかしその一方で、彼の「脳の休息」が決定的に足りていないこともまた、明らかな事実です。
だとするならば、せめて、薬に対する抵抗感をなくし、「薬とうまく付き合っていく」という「受け入れ」こそが、今の彼に最も必要な処方箋なのかもしれません。
薬師如来がそっと薬壺を差し出すように、きちんと、決められた量を、決められた時間に、きちんと服用する。そして、「薬に頼る自分を許すこと」
それもまた、立派な養生であり、回復への一歩なのだと私は信じています。
沙門蒼俊 合掌