神戸市、JR舞子駅から徒歩5分。
ここに県立の舞子公園があります。
「明石海峡大橋の(本州側の)根本のところ」と言ったほうが分かりやすいかもしれません。
この公園は明石海峡大橋のすぐそばにあり、明石海峡と、そこに架かる明石海峡大橋を一望することができます。めっちゃキレイ。私もよく散歩してます。
そしてベンチに座って菓子パンを食べているとハトが寄ってきます。あげませんけど。
ところでみなさん、このドーナツみたいなオブジェをご存知でしょうか。
これ。
私は最初の頃、「芸術家が作ったよくわからないオブジェ」くらいの認識でした(失礼)。
実はこのオブジェと明石海峡大橋には深いつながりがありまして。
ということで今回は、当時絶対に不可能とされた明石海峡大橋の建設、その原点となった故・原口忠次郎氏についてのお話。
1.技術者かつ政治家
原口忠次郎氏は1949年~1969年までの20年間、5期にわたって神戸市長として務めあげた人物です。
1916年に京都帝国大学(現在の京大)工科大学土木工学科を卒業。
その後は内務省に入省し、東京土木出張所、新京国道建設所長、神戸・中国・四国などの土木出張所長を歴任。
バリバリの技術屋であり、なおかつ官僚・政治家として手腕をふるった人物でもあります。
原口氏の功績は
・神戸市中央区の人口島「ポートアイランド」の整備
・神戸ポートタワー建設
・神戸港の発展
・六甲ドライブウェイの整備
・“さんちか”などの都市計画の実施
と多岐にわたるのですが、個人的にもっとも大きなものはやはり、明石海峡大橋の構想を発案したことです。
2.明石海峡は「瀬戸内の難所」
もともと明石海峡の潮流は激しいことで有名です。
ここでちょっと、波のお話。
紀伊水道からスタートした波は、鳴門海峡を境に2通りのコースに分かれます。
簡単に言うと反時計回りルートと時計回りルート。
鳴門海峡にぶつかった波が右と左に分かれるということですね。
反時計回り)大阪湾を通り、明石海峡を経由して播磨灘へと抜けていく(①→②へ)
時計回り)鳴門海峡へと進んでいく(①→③へ)
そして反時計回りルートでは、狭い明石海峡を通過することになります。
幅が狭いところに沢山の水が一気に押し寄せると、すさまじい速さになります。
特に淡路島側の潮流が最も強くなり、最大で7ノット (13km/h)を超えるほど。
例えるなら川の流れくらいの速さです。
その影響もあり、大きな波や渦ができやすくなるのも問題点。
流れが速く、大きな波や渦ができやすい。
これらの点から明石海峡は「瀬戸内の難所」とも呼ばれています。
(分かりやすくするため、だいぶ端折った説明になっています。気になった方がいたらごめんなさい!)
3.橋を架けるしかない
そのせいで本州と四国の間に橋を架けるのは容易ではなく、橋が無かった当時の交通手段は不安定な船の行き来のみ。
せっかく豊富な資源があるのに、近代的な産業は発展せず、平均収入も都市部よりかなり少なめ。
これはどうにかしなきゃいかんでしょ。この現状を打破するには橋を架けて本州と四国をくっつけるしかない。
そしてそれは本州の発展にもつながる。つまりはWin-Win。
そんなふうに思い立ったのが原口忠次郎氏でした。
しかし前述のとおり、明石海峡は瀬戸内の難所。
それが現実的でないことは明らかでした。
しかしそれでも原口氏は、当時の神戸市議会で、明石海峡につり橋を架ける構想を披露します。
それと同時に建設に向けた調査予算を提出。
まあ当然、反発されますよね。
みんな「あんなとこに橋なんて架けられるわけがない」と思っているわけですから。
中には「夢でも見てるんじゃないか」と嘲笑うような言葉まで出てくる始末。
そこで原口氏が言い放ったのが、この言葉。
「人生すべからく夢なくしてはかないません」
要するに「人生ってのは夢を叶えるものでしょうが」と言い返したわけです。
かっこいい。
原口氏はその勢いでつり橋建設の調査予算を押し通し、本格的な調査に乗り出します。
その後は建設大臣への陳情に奔走したり、海外のつり橋技術を翻訳してまとめたり。
特に後者は『調査月報』として毎月発行され、日本の技術者が海外の最先端技術を学ぶ貴重な資料となっていました。
そこから16年の月日が流れ…。
1973年、ついにつり橋の着工にこぎつけることになります。
まさに執念。
4.夢半ば
しかしいよいよ橋の建設が始まるという5日前、着工の無期限延期が発表されてしまいます。
原因は同年に発生したオイルショック。
特にガソリンや灯油、石油を燃料とする工業製品が不足したことが痛手となったと考えられます。
原口氏はその3年後、86歳でこの世を去ることに。
その無念はどれほどのものだったのか。
原口氏の墓は現在、明石海峡大橋が見える舞子墓園に建てられています。
しかしこの話、まだ終わりではありません。
原口氏が日本の技術者のために毎月発行し続けた『調査月報』。
この内容を受け継いだのが、神戸製鋼の社員だった三田村武氏と、その後輩である穐山正幸氏でした。
この2人の技術者が中心となり、阪神淡路大震災をも乗り越え、明石海峡大橋は完成することに。
原口忠次郎氏が初めて議会で計画を口にしてから39年後のことでした。
言葉が形を成すまでに約40年かかった、ともいえます。
5.始まりは一人の言葉から
着工から完成までの工期は10年、その間に携わった人数は210万人。大工事です。
それだけ多くの人の力があって成し遂げられたことは確かなのですが…。
私としてはやはり、最初の言い出しっぺに注目します。
どんなことでも、誰かが「やろう」と言い出さなければ始まりません。
周りから笑われたり否定されたりすることを承知の上で、無謀ともいえる計画を口にする。
簡単なことではありません。
最終的に210万人もの人々を動かしたのは、原口氏のあの言葉。
「人生すべからく夢なくしてはかないません」。
誰が何と言おうと自分はこう思うんだ、という熱意です。
冒頭で紹介した、あのオブジェ。
これには「夢レンズ」という名前がついています。
実はこの輪っかの位置に立つと、明石海峡大橋が見えるという仕組み。
つまりこの夢レンズは「原口氏がかつて思い描いた夢を映すレンズ」ということになります。粋ですね。
何か新しいことを始めるとき。
誰もやったことがないことに挑戦するとき。
そんなときに原口氏の言葉を思い浮かべると、なんとかなるような気がしたり…しなかったり。
そんなふうに思うのでした。