映画スター。昭和の時代はよく聞いた言葉だった。
だが、平成が終わり令和になった今、映画スターと呼べる人はいない。
昭和の一時期のように、映画そのものが一番の娯楽でなくなったことも大きい。
SNSで余暇の時間の大半はつぶれるし、テレビドラマ、ネット動画・ネットドラマ、ひと昔前からの会いに行けるアイドルの出現。
封切られる映画の本数だって全盛期の比較にはならない。
となれば、映画スターがいなくなるのも仕方ない。
今スターと言われている方は、昭和の時代に活躍したスターが今も活躍しているから、名残りでそう呼ばれているにすぎない。
若手でスターという人はいないのではないか。スター性があると言われる人気俳優陣はいても、そもそもスターとは別だ。
これからもスターは出ないだろう。名役者や、名ドラマ俳優は引き続き出現しても、映画スターはおろか、映画俳優や、映画女優は出てこない。
やはり、スクリーンという、非日常の空間に写されてこそスターと呼ぶに値する。いくら人気があり、テレビドラマの主役を何十本も張っていても、そこに崇め奉りたくなる神秘性や、絶対に手が届かない夢の人というイメージは皆無だ。
芸能人である以上、もちろん普通一般の庶民は生涯かかわりあうことはないとてつもない有名人で、もっとも遠い人であることは間違いないが、根本的に存在が軽すぎる。日常の明るいところで彼らを見ていては、どうあがいても夢の存在にはなりえないし、崇め奉る存在にはなりえない。とくに、テレビCMが細切れに入るとなれば、無駄な想像力というものも育たない。
また、親しみやすさを全面に押し出す風潮もだめだ。私生活はたとえ嘘でもさらけ出してはいけない。
そもそも、名優や、名役者を目指す俳優はあまたいれども、スターというものを目指している役者は少なくなったのだろう。スターになる意思がなければ、その重圧も責任感もないので、事務所の方針に素直に従って、無邪気に私生活をさらけ出し、庶民感覚をアピールするのに終始するのが関の山だ。
あとは、マスコミの暴走ではないか。庶民が刺激的なものに食いつくことを良いことに、有名人のプライベートを徹底的にあばくことを生業としている。昭和の時代は、今ほどえげつない張り込みまがいのことはしなかったはずだ。また、たとえそれに似たことをしても抹殺する力がスター側にあっただろうし、そもそもそんなことをしないようマスコミを黙らせるだけのスター側の威力も強かったと思う。
当然のことながら、今後勝新みたいな、何をしても許されてしまう豪放磊落なスターは出ない。
第一条件の風貌(美貌、見てくれの良さ)、オーラ(文字通りのスター性。天性の人々を惹きつけずにはおれないもの)、芝居の才能、スターたらしめている理由はそれこそあまたある。そもそも一般庶民の絶大な支持があってこそスター。でも何に大衆が熱狂するかなんてわかりゃしない。
スター原理主義者とでもいうべき自分は、スターが大活躍しているからこそ、昭和の映画が楽しいんだよな。
これからは私が贔屓にしている日本の映画スターについて語ろうと思う。