出勤途中の道に、まだ桜の花びらが残っていた。
春灯は立ち止まり、ひとひらを掌に受ける。
淡い花の残り香は、なぜだか紙の匂いに似ていた。
新しい職場にも少し慣れてきたが、心のどこかでいつも“届かなかった言葉”のことを考えている。
会社のデスクに座ると、鷹取課長が隣の席で小さくあくびをした。
「……おはようございます」
「おう」
短い返事。いつも通りの無表情。けれどその指先は、古びた万年筆をそっと握っている。
キャップの傷が目に留まり、春灯は思わず声をかけた。
「それ、ずっと使ってるんですね」
課長は少し視線を上げ、静かに言った。
「使ってる、というより……置いてる、かな」
それ以上は何も言わなかった。
だが、その言葉の切れ端が、春灯の心に“残響”のように残った。
***
昼休み、春灯は社内カフェで同期の麻衣(まい)と向かい合っていた。
「ねぇ、課長ってさ、昔誰かの上司だったんだって。その人、事故で亡くなったらしいよ。ほら、その万年筆、形見なんじゃない?」
「……そんな噂、どこで聞いたの?」
「先輩たちが。誰も詳しくは知らないけどさ」
麻衣は軽く笑いながらサンドイッチをかじる。
だが春灯の胸の奥では、何かが静かに沈んでいくようだった。
もし本当にそうなら——あの人が言っていた“届かない手紙”って、
自分の過去のことなのかもしれない。
「ねぇ春灯。あんたさ、名前の意味、気にしてる?」
「え?」
「“春の灯り”でしょ? なんか……人の心に残る感じするよ。もしかしてさ、あんた自身が誰かの“届かなかった手紙”なのかもね」
その言葉に、春灯は返せなかった。
心の奥で何かがきゅっと締めつけられた。
麻衣の言葉は冗談めいていたが、なぜかその響きだけが妙に現実的だった。
***
その日の夕方、会議室で企画プレゼンの打ち合わせが始まった。
チーム全員が緊張する中、課長がゆっくりと口を開く。
「人はな、忘れるために書くんじゃない。届かせるために、書くんだ」
春灯の指が止まる。
その言葉は——まるでどこかで聞いたような、誰かの声。
中学の卒業式の日に担任が言ってくれたあの言葉と、
ほとんど同じ響きだった。
春灯は視線を上げた。
課長の横顔は淡い夕陽に照らされ、
一瞬だけ、哀しそうに見えた。
***
夜。
帰り道、窓ガラスに映る自分の顔を見ながら、春灯は小さく呟いた。
「届かない言葉……届かないまま、残ってるものもあるんだね」
ポケットの中には、小さく折りたたんだメモ用紙。
昼休みに麻衣が言った言葉を、何度も書き直していた。
『誰かの届かなかった手紙が、次の誰かを動かす。』
春灯は笑った。
その“次の誰か”に、自分がなれるかもしれない。
そんな予感だけが、静かに胸を照らしていた。
(続)
〜次回予告〜
「記憶の座標 第3話:欠片(かけら)」
春灯が初めて直面する挫折と、鷹取課長の“過去の手紙”の断片。
過去と現在の境界が、静かに崩れ始める——。