父が怒鳴るのをやめた日

父が怒鳴るのをやめた日

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コラム
夕方6時半。

リビングには、カレーの匂いがしていた。

母親は、いつものように皿を三つ並べる。

父親の分。

自分の分。

そして、息子の分。

けれど、中学3年の息子は食卓には来ない。

部屋のドアは閉まったまま。

中からは、ゲームの音が小さく聞こえていた。

父親は、その音を聞くたびに顔をしかめた。

「学校にも行かずに、ゲームか」

最初は、父親も心配していた。

朝になると息子は頭痛を訴えた。

制服を着るところまではいく。

でも、玄関で止まる。

ある日は、靴を履いたまま動けなくなった。

母親は「今日は休もう」と言った。

父親は「ここで休ませたら癖になる」と言った。

家の中で、夫婦の意見が割れた。

息子は、ますます部屋にこもるようになった。

食事は、母親がドアの前に置いた。

食べる日もあれば、手をつけない日もあった。

皿が戻ってくるとき、カレーはいつも冷めていた。

ある夜、父親が我慢できずにドアを叩いた。

「いい加減にしろ」

「いつまで逃げるつもりだ」

「みんな苦労してるんだぞ」

返事はなかった。

その代わり、部屋の中で何かが倒れる音がした。

母親が父親の腕をつかんだ。

「やめて」

その一言に、父親は初めて黙った。

翌朝、母親は息子の部屋の前に、いつものように朝食を置いた。

すると、ドアの隙間から小さな声がした。

「昨日、怖かった」

母親は、何も言えなかった。

その夜、父親は息子の部屋の前に立った。

怒鳴るためではなかった。

ただ、ドアの向こうに向かって言った。

「昨日は、悪かった」

返事はなかった。

でも、翌日の夕食。

息子はリビングの端に立っていた。

椅子には座らない。

目も合わせない。

それでも、小さな声で言った。

「カレー、まだある?」

父親は、すぐに何かを言いそうになった。

でも、こらえた。

母親が温め直したカレーをテーブルに置く。

息子は、黙って食べた。

父親も黙っていた。

その沈黙は、以前の重苦しい沈黙とは違っていた。

責めない沈黙。

急かさない沈黙。

子どもがそこにいてもいいと伝える沈黙だった。

不登校の家庭では、親も追い詰められる。

特に父親は、「何とかしなければ」と思うほど、強い言葉を使ってしまうことがある。

けれど、動けない子に必要なのは、正論より先に安心である。

学校に戻す前に、食卓に戻れること。

会話の前に、同じ空間にいられること。

私は、それも大切な回復だと思っている。

冷めたカレーを温め直すように、親子の関係も、少しずつ温め直せばいい。
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