いよいよ、今日入れて後2日ですね。
早すぎて、、、特にここ最近は身内の病気から死の瞬間があったのでとてつもなく速い時間でした。
人生、有限、先送りしている程、長くはないんだなと。
ここから先は、死生観を書いてありますので楽しい事だけ知りたい、聴きたい方は、読むのを辞めてください。
子供の頃から、察知したり、類推したり、想像を働かせる力は強かったと思われます。子供の頃の方が恐らくほとんどの人が常識とか枠組みに入らないで純度が高いので逆に感知するは高いですよね。大人になるにつれて、察知したり、空気を読む力が。歪んできたり、ずれてきたりしますから。
自分の子供時代は、身近な人の死が日常生活の延長線上にありました。少し前までは自宅で家族が介護して看取り、村の共同体でお葬式をしていた経験を私は幼少期に経験していました。ですので子供の頃から親戚の葬儀には参加させて頂いていました。親が何を言うでもなく、いきなり、今日、田舎に行くから、車に乗りなさいと家族皆で行く、良く分からないけれど、それが子供心ながら、説明もあまり無くても何かが起こった事は察知していました。
ほとんどの人が初めて人の死を経験するのは恐らく幼少期の祖父母の葬儀、可愛がってくれた優しい祖父母はいない、久しぶりに会う従弟との再会でも場が場なだけに、良く分からないけど手を合わせたり故人を追悼してたと思います。そう言った経験を幼少期からしていたので(それもセレモニーではなく村の人達の協力で)人の死が身近でしたし、両親も子供が人の死を理解出来ないと最初から決めつけず参加させて頂いていたのは子供心ながらに生きる事、そして死と言う物が誰でもいつか来る事、贖う事では無い事、人生は有限である事を自分自身の心と体で知れた事はとても良かったのだと今考えると思う。。。説明する者でもなく自然と感じ体現した事。
その後も叔父さんや少し年上の従弟の病死、バイク事故で16歳で亡くなった従弟の死は本当に重すぎてその時の記憶は、暗く冷たい雨の中、誰も話さない重苦しい沈黙の葬儀は今でも記憶に残り、忘れられない。
ここ数年でも親戚の死、登山中にいきなり前に倒れてそのまま亡くなった従妹の死、友人の病死、父親の病死、誰一人として同じではないし、病気だけでもない、いきなりの別れにとても困惑をしたけれど、子供の頃と同じで何をできる訳でもないけど、状況を少し確認し、とにかく故人と家族に手を合わせるだけでも命の尊厳今、この時間や一所懸命に生きた故人の追悼になるのでしょうか…
大切な人たちの肉体がなくなっても魂は生きているし、その人たちが言った言葉や態度は心の中にある。それでも「前に進まねばならん」って言っていた三浦春馬君の言葉がそっと聞こえた。少しずつ進もう。
今を大切に普通の毎日を大切に生きようと思います。
感謝、合掌
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