前回、「子どもの人生を、子どもに返すと決めた日」という記事を書きました。
でも、頭では、
「子どもには子どもの人生がある」
と分かっていても、心配をやめられないことがあります。
分かっているのに、できない。
そして、できない自分を見て、
「私は過干渉な親なのかもしれない」
「子どもを信じられない、駄目な親なのかもしれない」
と、また自分を責めてしまう。
今回は、その心配がどこから来ているのかを、もう少し深く考えてみたいと思います。
決めた瞬間から、心配が消えたわけではありません
私自身、子どもたちが家を出るときに、
「子どもの人生を、子どもに返そう」
と決めました。
だからといって、その日から心配がゼロになったわけではありません。
そんなに格好いい話ではないんですよね。
特に娘には、自分の軸がまだ十分に育っておらず、人に流されやすいところがあるように見えていました。
危険な目に遭うかもしれない。
困っていても、私には言わないかもしれない。
そう思えば、連絡したくなります。
様子を見に行きたくなります。
親として、何かしておいた方がいいのではないかと思います。
それでも私は、住所など必要なことは知っていましたが、実際にどのような家で暮らしているのかを確かめに行きませんでした。
心配がなくなったから、手を出さなかったのではありません。
心配があっても、それを理由に子どもの人生へ入り込まないと決めたのです。
その心配は、今の出来事だけから生まれたものですか?
なぜ私は、これほど子どものことが心配だったのでしょう。
振り返ってみると、その原因は、子どもだけにあったのではありません。
私は長い間、自分がどうしたいのかより、母がどう思うのかを気にして生きていました。
母の言うとおりにしていれば安心する。
母の望む道から外れると、何か悪いことが起きるような気がする。
にらまれたくない。
嫌われたくない。
大人になってからも、心の中では母の許可を求めていました。
「親の言うことを聞いていれば間違いない」
その考え方が自分の中に残っていたから、今度は私が、子どもの選択を自分の考える正しい方向へ戻したくなったのかもしれません。
親に言われた人生を生きて苦しかった私が、いつの間にか子どもの人生にも口を出そうとしていた。
少し厳しい言い方ですが、愛情があるからといって、相手の人生へどこまでも入ってよいわけではありません。
ただし、だからといって親だけを責めても、この問題は解決しないと思っています。
親自身も「正しく従うこと」を教えられてきた
私たちは家庭だけでなく、学校の中でも、
「先生の言うことを聞きなさい」
「人に迷惑をかけてはいけません」
「みんなと同じようにしなさい」
「決められたことは、きちんと守りなさい」
と教えられてきました。
もちろん、集団で生活するための決まりは必要です。
けれど、決められた正解を選ぶことばかりが続くと、
「私はどう感じているのか」
「私はどうしたいのか」
を考える機会が、少なくなってしまうことがあります。
文部科学省が公表した令和6年度の調査では、小・中学校の不登校児童生徒は約35万4千人、高校では約6万8千人。
いじめの認知件数は約76万9千件、重大事態は1,405件でした。
いじめの認知件数は、学校が小さな兆候まで見つけるようになった結果も含まれるため、数字だけを見て「いじめが増えた」とは言い切れません。
それでも、これほど多くの子どもたちが、学校生活の中で何らかの苦しさを抱えていることは確かです。
これは、子どもが弱くなったから。
親の育て方が悪かったから。
それだけで片づけられる問題ではありません。
家庭、学校、そして社会全体の中にある「正しい子どもでいなければならない」という空気も、見ていく必要があるのではないでしょうか。
親は助けているつもりなのです
学校や部活動の準備物を、親が確認する。
友人関係や学校で起きたことを、細かく知ろうとする。
子どもの気持ちより先に、成績や結果を確認する。
親は、子どもを困らせたいわけではありません。
むしろ、困らないように助けているつもりです。
私も、そうでした。
けれど、大人が先に答えを出し続けると、子どもは自分の気持ちを確かめたり、自分で考えたりする機会を失っていきます。
そして、いつの間にか、
「お母さんは、どう思う?」
「私は、どうしたらいい?」
と、答えを外側に求めるようになることがあります。
親が安心するために先回りをする。
子どもは失敗しないために親の答えを求める。
この関係が続けば、お互いに離れにくくなります。
親子の依存・共依存は、こうして愛情の中で作られることもあるのです。
先回りしたくなったとき、私は一度立ち止まります
今でも、子どもや孫に何かしてあげたくなることがあります。
そんなとき、私は自分に問いかけます。
「これは本当に、この子に必要な助けなのか」
「それとも、私が安心したいだけなのか」
いつも、きれいに区別できるわけではありません。
それでも、この問いを持つようになってから、先回りして動くことは少しずつ減りました。
もう一つ、確認することがあります。
「今、私は助けを求められているのか」
助けを求められたときに、できることをする。
けれど、求められていない段階から、親が問題を見つけて解決しようとしない。
子どもを手放すとは、何もしないことではありません。
子どもが自分で考え、選び、失敗する余白を残すことです。
苦しさの原因が分かれば、自分を責めなくて済む
子どもを手放せないのは、あなたが悪い親だからとは限りません。
自分もまた、親の言うことを聞くように育てられてきた。
学校でも、正しい答えを選ぶように教えられてきた。
その考え方が、今も心の中に残っているのかもしれません。
親の環境は、そのまた親から影響を受けています。
苦しさの原因は、自分一人から始まったものではないことがあります。
だから、自分を責めるだけでは、この連鎖は終わりません。
どこから来た心配なのかを知る。
そして、
「私は、本当はどうしたいのだろう」
と、自分に問い直していく。
子どもの人生を子どもに返すことは、親である自分の人生を取り戻すことでもあります。
一度で全部を手放せなくても大丈夫です。
まずは、先回りして何かをしたくなったときに、一度だけ立ち止まってみる。
そこから、親子の新しい関係が始まっていくのだと思います。
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母親としての良し悪しを決めるものではありません。
今ある強みと、少し行き過ぎているところ、これから活かしていける部分を個別レポートにしてお返しします。