今、2023年の大晦日の夜です。先ほど、NHK紅白歌合戦が始まってました。
私は、一人暮らしの部屋で、餅を煮込んだ鍋を啜りながら、これを書いています。
どうでしょう?一般的に、家族や旧友と集まって過ごすことが多い大晦日〜正月ですが、時代が変化したこともあり、私と同様に、1人で過ごしている方も少なくないかもしれません。
独居でいることの寂しさを、普段以上に感じやすい季節だけに、今回は「孤独」について、つらつら書き綴ります。
「群居衝動」とプライバシーの狭間で
人間は、万物の中で唯一、言葉・概念というものを通じて、目の前に見えている・感じ取れるものごとを超えて、思念することができます。
また、文字・紙・印刷・動画録音といった技術により、時空を超えて、イメージをシェアすることもできます。これらは間違いなく、人間を動物界のトップたらしめる素になっているでしょう。
ただ、人間の各々の個体だけ取り出すと、決して動物界No.1の強さだとはいえません。おそらく、猛禽類やゾウやヒョウやライオンなどと個体レベルで対峙したら、やられる可能性の方が高いでしょう。だから、人間は、集団で暮らして、集団で活動することが、強さの絶対条件になっています。
その人間の性向を、DNAレベルでも仕掛けられているのでしょう。人間には、「自分という個体単品しか居ない状態で過ごす」ことを恐れて、他の人間と群れようと志向する衝動が、本能レベルに組み込まれているようです。
ただ、個人の自由を拡大してきた技術発展の末、現代人は、プライバシーを尊び、他人と空間を共有する煩わしさを削減してきました。昔はシェアリングエコノミーしないと生きられなかったので、風呂もトイレも他の家族と共有するのが当然だったのが、今や個々の世帯で独占的に持つようになりました。
身を寄せ合って猛獣たちをなんとか凌駕してきた原始時代から変わってないDNAが、群居衝動を生じさせる中で、技術発展に裏打ちされた現代社会の環境・価値観は「他人に煩わされず個々の自由を謳歌する」方向にスタンダードを変えている。この相剋で、人は相反する欲望の間で、時に孤独をひしひし感じて悩むのかもしれません。
群居衝動を充足しづらい環境に変化
タイミングや分量的に、都合の良い時に群居衝動を満たし、都合の良い時にプライバシー確保して自由を謳歌したい。しかし、現代社会では、どちらかというと群居衝動の充足が、どんどん難しくなっているかもしれません。
昔話ですが、私の青春時代の前半は、ケータイなどありませんでした。その頃は、暇な若者は、特定の喫茶店や部室など「溜まり場」にたむろすことで、暇つぶしの遊び相手をお互いに見つけたりしてました。もちろん、その溜まり場には、自分の嫌いな奴も集まってきます。望んでいなかった組み合わせで遊びが始まったり、想定してなかった過ごし方が発生することはしょっちゅうありました。
今はどうでしょう。皆、モバイル端末を携帯していて、ピンポイントの相手に、ピンポイントの時間でアポイントを取り付けて、ほぼ意図したことを無駄なく行うようになりました。好き好んで集まった小集団が増え、なんだかよくわからない雑多な大集団は作られなくなりました。
そのように変化した現代では、「雑多な者たちが、予測不能な状況も生まれる環境で、物理的に身を寄せ合って群れる」という機会は、非常に稀になりました。「読める相手と、読めるタイミングで、読める展開を行う」という時間ばかりになりました。「群れ」がレアになって、「目的を持った合理的な組織」が公私共に大半を占めているようになりました。
今でもかろうじて、家族だけは、「目的を持った合理的組織」よりは「たむろす群れ」に近いと思います。しかし、昔のような大家族が減り、核家族化した上で少子高齢化しています。群れの規模も昔に比べて非常にスモールだし、子供が自立すると「つがい」しか居な口なる、という、「群れ」というにはかなり心許ない存在になっています。
群れるのもオンラインか
で、もしかしたら現代では、群れ行為もオンラインで行う時代なのかもしれません。
テレビやラジオといったメディアを見聞きするのもそうだし、SNSでかけあってるのも群居衝動がエネルギー源なのかもしれない。もっとも、身体的に空間共有していないので、群居衝動を満たす行為としては、やや力不足になるんでしょうね。