「あの先生はいい先生だった」
そう言うとき、私たちは何を指しているでしょうか。
授業が面白かった
優しかった
話を聞いてくれた
怒らなかった
生徒と距離が近く、親しみやすかった
たぶん、こういうことだと思います。
私は、これらは全部、いい先生の条件ではないと考えています。
この記事では、「いい教育者とは何か」を、たった一つの基準で定義します。
1. まず、「教育者」は先生だけではありません
この記事で言う教育者とは、子どもを教育する人すべてです。
学校の先生
塾の講師
部活の指導者
そして、保護者
親は、家庭教育の教育者です。「私は先生じゃないから」は通用しません。子どもと過ごす時間は、学校の先生よりはるかに長いからです。
つまりこの記事は、先生を評価するための記事であると同時に、親が自分を評価するための記事でもあります。
2. いい教育者の定義
結論から書きます。
いい教育者とは、子どもを進歩させることができる人である。
これだけです。
面白いかどうかではありません。優しいかどうかでもありません。人柄が良いかどうかですらありません。
教育を通して、子どもが前より進歩したか。
進歩したなら、いい教育者です。進歩しなかったなら、どれだけ好かれていても、教育者としては仕事をしていないことになります。
厳しい定義ですが、私はここを譲るべきではないと思っています。
3. なぜ「面白い先生」「優しい先生」が基準にならないのか
誤解のないように書きますが、面白いことも優しいことも、悪いことではありません。
問題は、それが手段なのに、目的とすり替わることです。
面白さは、手段です
授業が面白いのは、子どもが集中して聞き、結果として伸びるから価値があります。
面白かったけれど、何も身についていない授業。これは娯楽であって、教育ではありません。
「あの先生の授業、楽しかったよね」で終わり、成績も態度も1年前と同じ。それは、1年分の時間を消費しただけです。
優しさも、手段です
優しさは、子どもが安心して挑戦できるから価値があります。
しかし「嫌われたくないから、注意しない」は、優しさではありません。教育者が、自分を守っているだけです。
提出しなくても、何も言われない
挨拶しなくても、何も言われない
嘘をついても、流される
そのとき子どもは、居心地はいい。けれど、1ミリも進歩しません。
そして数年後に困るのは、その先生でも親でもなく、子ども本人です。
好かれることと、育てることは、別の仕事です。
4. では、「進歩」とは何の進歩か
ここが、この記事のいちばん大事なところです。
「進歩」を成績のことだと思った方が多いと思います。それが、いまの教育の最大の落とし穴です。
教育基本法 第2条には、こう書かれています。
幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと
一文の中に、3つ並んでいます。
知育 … 学力・思考力
徳育 … 人としての在り方
体育 … 心身の健康
文部科学省もこれを「生きる力」=「知・徳・体のバランスの取れた育成」と説明しています。
つまり、進歩とは、この3つの進歩です。
いい教育者とは、子どもの知育・徳育・体育を進歩させられる人である。
これが完全版の定義になります。
5. 「知育だけ進歩させる人」は、いい教育者ではない
この定義には、もう一つの意味があります。
成績だけ上げて、他を放置する指導者は、失格だということです。
偏差値は10上がったが、挨拶をしなくなった
志望校には受かったが、夜型になり、朝起きられない
点数は取れるが、店員に横柄な態度を取る
成績は上がったが、平気で嘘をつくようになった
これは進歩ではありません。 3本のうち1本を伸ばし、2本を削っただけです。
トータルで見れば、その子はマイナスになっている可能性すらあります。
そして怖いのは、知育の成果はその日のうちに数字で出るのに、徳育と体育の後退は、何年も経たないと表に出てこないことです。
合格発表の日には、誰も気づきません。
6. 家庭で、自分を測ってみてください
親も教育者である以上、同じ物差しで測られます。
1年前と比べて、お子さんはどうでしょうか。
知育
前より、自分から机に向かうようになったか
分からないことを、分からないと言えるようになったか
徳育
前より、挨拶ができるようになったか
呼ばれて返事をするようになったか
使ったものを、元に戻すようになったか
約束を守るようになったか
体育
前より、早く寝るようになったか
朝ごはんを食べているか
体を動かす時間があるか
「変わっていない」なら、そこに問題があります。
子どもの資質の問題ではありません。教育者である私たちが、進歩を起こせていないということです。
厳しい言い方ですが、ここを子どものせいにした瞬間、教育は止まります。
7. 学校の先生を見るときも、同じ基準で
保護者面談や、学年が変わるとき。先生をどう評価するか。
見るべきは、ここです。
「うちの子は、この先生と過ごした1年で、進歩したか。」
厳しい先生だから悪いのではありません。優しい先生だから良いのでもありません。
進歩させたかどうか、だけです。
ただし、公平を期すために3つ付け加えます。
① 進歩は、テストの点だけではありません
返事ができるようになった。掃除をサボらなくなった。これも立派な進歩です。むしろ点に出ない進歩のほうを、意識して見てあげてください。
② 短期で判断しない
教育の効果が出るまでには時間がかかります。3か月で決めつけるのは早すぎます。
③ 担任一人のせいにしない
先生は、1人で30人以上を見ています。制度の問題を個人の責任にしても、何も解決しません。
この基準は、先生を責めるためのものではなく、私たち自身が「何を教育と呼ぶか」を定めるためのものです。
8. 厳しさも優しさも、道具にすぎない
ここまで書くと、「では厳しくすればいいのか」と思われるかもしれません。違います。
厳しさも優しさも、目的ではなく、道具です。
その子が伸びるなら、厳しくする
その子が伸びるなら、優しくする
判断基準は、常に「その子が進歩するかどうか」の一点にあります。
自分が気持ちよくなるための厳しさは、ただの支配です。
嫌われないための優しさは、ただの逃げです。
どちらも、教育ではありません。
9. 最後に
もう一度書きます。
いい教育者とは、子どもの知育・徳育・体育を進歩させることができる人である。
面白い先生である必要はありません。
優しい先生である必要もありません。
好かれる親である必要すら、ありません。
その子が、去年より進んでいるか。
それだけを、静かに問い続ける人が、いい教育者だと私は思います。
そして「進歩」を成績だけで数えないでください。
挨拶ができるようになった。靴をそろえるようになった。約束を守るようになった。
これも、まぎれもない進歩です。
むしろ、こちらのほうが一生残ります。
参考
教育基本法 第2条(教育の目標)
文部科学省「生きる力」(知・徳・体のバランスの取れた育成)
文部科学省「小学校/中学校学習指導要領 特別の教科 道徳」