防衛的感情表現について

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コラム
今日は、「防衛的感情表現」について、書かせていただきます。

あらゆる感情は、良い悪いで判断されるべきではありません。
喜怒哀楽全ての感情は、生きるエネルギーだと、私は考えています。
だから、泣きたいときは泣けば、怒りたいときは怒れば、嬉しいときは喜べばいいと思います。

しかし、「表現」の中には好ましくないものもあります。
それが防衛的に使われる場合です。
奥底にある本当に表現したい感情を変形させ防衛的に表出させてしまう「表現」です。

例えば、境界性人格の人は激しい怒りを示し、演技性人格の人はドラマチックな出来事の中に自分をおき、自己愛性人格の人は他者を執拗にコントロールし、依存性人格は徹底的に他者に依存し、妄想性人格は他者から攻撃されているという思いに固執するという表現をします。

これらの「表現」は、「防衛的感情表現」と呼べば当てはまると思います。
これらの「防衛的感情表現」の奥底には、デリケートで脆く、これまでほとんど表現されてこなかった、別の角度からの言い方をすれば、守られてきた感情があるように思います。

これが、私たち補完代替医療(CAM)のセラピストとしての経験から得た、ひとつの基盤になります。

抑圧された感情が表現されたのなら、私は基本的にそのプロセスを見守ります。

それは、プロセスがその人を最も良いところに連れて行ってくれると思うからです。

これは古代中国の、老子の考え方に沿うものです。

・人に干渉するのをやめれば、彼らは自分で自分の面倒をみる。
・人に命令するのをやめれば、彼らは自分で行動する。
・人に説教するのをやめれば、彼らは向上する。
・人に押しつけるのをやめれば、彼らは自分自身になる。

というわけです。

これは「ホリスティック医学の定義」にも書かれてあるように、「患者が自ら癒し、治療者はその援助をする」に唱えられているように「病気を癒す中心は患者であり、治療者はあくまでも援助者である。治療よりも養生、他者療法よりも自主療法が基本であり、ライフスタイルを改善して患者自身が『自ら癒す』姿勢が治療の基本となる」にも、当てはまるものです。

それは、セラピストがクライアント様に「共感している状態」と言えます。
しかし、「防衛的感情表現」がなされているとき、私は、その「表現」に対して、一定の距離をおきます。

それは、オットー・F・カーンバーグ(米国 精神科医 精神分析家)が主張した、直面化につながります。
「防衛的感情表現」には共感はしないかもしれませんが、その奥底にある、何らかの理由で表現することが困難な感情を見つけ、その感情に共感していきます。

「防衛的感情表現」そのものには共感はしないのですが、そうした表現をせざるを得なかった状況は洞察し、理解はできるわけです。

「防衛的感情表現」は、自分の心が生き残るための必死な試みなのだと言えます。
なので、その「必死さ」については、共感するところがあると思うのです。

オーセンティック(正統・本物であるさま、信頼できるようす・純粋さ)感情が表現された後、それがルーティン化し「防衛的感情表現」になってしまう場合もあります。

境界性パーソナリティの激しい憤怒も、演技性パーソナリティのドラマチックな絶望的悲嘆も、最初はもっと深く、しかし静かなオーセンティックな感情表現だったかもしれないのです。

しかし、たとえばそうした表現が理解されることも受け入れられることもない状態が続くと、怒りはより激しい怒りへ、哀しみはドラマチックな絶望的悲嘆へと反復強迫的にエスカレートし、「防衛的感情表現」に変化していくのではないかと考えています。

そして、そうしたエスカレートと並行して「利得」の要素が強くなるということもあるでしょう。

激しい怒りをぶつけたり、絶望的悲嘆を見せれば、相手が刹那的にその人の要求をかなえてくれるという「利得」もあり得るのです。

また、セラピーの中で表現されたオーセンティックな感情表現が、防衛的なものに変質していくことすらあります。
こうなると、クライアント様が「防衛的感情表現」をすれば、セラピストが共感してくれるという状況になりがちです。
このような場合、実は、セラピストの共感は真の意味での共感ではなく、その場しのぎの「共感のフリ」、つまり、「防衛的共感」になってしまっているのです。

これでは、もはやセラピーにはなりません。

なので、セラピストには、「防衛的感情表現」と、オーセンティックな感情表現とを見分ける眼が必要と言えるでしょう。
しかし、「防衛的感情表現」と、オーセンティックな感情表現とを見分けるのは簡単ではありません。

様々な要素が複雑に絡み合っている場合が多く、一概には言えないのですが、「防衛的感情表現」の場合、何らかの焦燥感、押し付け感、執拗さが見られ、その結果としてのなんらかの見返りを求めますが、オーセンティックな感情表現の場合、そうしたことはありません。

「防衛的感情表現」は、柔らかなレベルでは、誰もがやったことがあるでしょう。
たとえば、うそ泣きとか愛想笑いなどは、柔らかな「防衛的感情表現」だと言えます。
私の得意な笑ってごまかすなんていうのも、立派な「防衛的感情表現」です(笑)。
パーソナリティ障害の場合、それが極端になってしまうわけですが、本質は変わりないのです。

本質が変わらないから、例えそれがパーソナリティ障害の人の表現であっても、理解することは可能なわけです。

最後までご高覧ありがとうございました。
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