教育はすべてを失っても剥がされない

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コラム
大学院の先生が「あなたがどんな教育を受けたか」が大事だという意味のことを言っていたのを覚えています。

自分なりに拡大的に解釈すればこのようになるかもしれません。

教育は、その場面場面でいろいろな教えてくれる人が関わります。私は中学の最後の方のほんの一部以外は大学を含めて学校をほとんど数えるくらいしか休んだことがないので教育は存分に受けてきました。授業の内容に関係あることはもちろん、関係ないこともその教えてくれる人の人生から出てくる生きた教えになります。もちろんそんな生きた教えを教えられる人はそう多くはないかもしれませんが、誰でも何人かは出会えているはずでしょう。

国語、算数、理科、社会、英語(それ以外の科目もこれらの派生や発展である)は大人になっても使うことはない、などと言われますが、使う生き方をしていないというのが正確な表現で、私はこれまでも、これからも一生使います。また日々思い返すのは、ある事象を見たときに、あのときあの人がこのように教えてくれた、ということを思い出し、さらに自分で考えます。明日の準備は今日のうちにしておく、自分がされて嫌なことは他人にしない、なんて当たり前のことでもそう教えられた場面は今でも鮮明に覚えていますし、その通りにしようと日々努力しています。そんな些細なこと(それでも多くの人ができているとは思いませんが)から始まって全ては受けてきた教育になります。

転機は10年前の大震災のときに訪れました。その時震災を経験して日々いろいろなことに、人生でまれにみるくらいの葛藤を続けていく中でふと、大学院で教わったその言葉が強く意識されました。そこで辿り着いたのは、世の中の全てのものがなくなっても、今の仕事がなくなっても、全財産がなくなっても、自分が受けてきた教育で身につけてきたものは誰からも何からも自分から奪われることはない、ということでした。そして自分なりに様々な教育を受けてきたこと、学んできたこと、学習したこと、今でも思い出すいろいろな教室の情景や教え、命があれば周りに何もなくなっても自分はその絶対に奪われないものがあるので、何かできるはずだという思いに達しました。

こんなことも10年間思い続けていました。
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