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そんな世界が美しい

映画「PERFECT DAYS」を観た。 役所広司が規則的な箒のはき音で目覚め、薄い布団をたたみ仕事着に着替える。無表情で歯を磨き丁寧に髭を揃え、入り口近くに置いてある棚上の鍵と小銭をポケットに詰め込む。ペンキの禿げた古いアパートの横にある自販機で、毎日同じ缶コーヒーを買う。そして仕事用の道具を詰め込んだ車で日が昇る前に出かける。選んだカセットテープを押し込む「カチャッ」という音が懐かしい。英語の曲が流れ始める・・・・・・・。 若い人と私のような年寄りで評価が分かれるようだ。 私は退屈しなかった。何か事件が起きるだろうと期待したが何も起こらない。それでもなにか良かった。ドアを開けた時、朝日を眩しそうに少し笑う役所広司の顔がとてもいい。きのう何があっても今日は今日で陽が昇る。 都会で取り残されたような古い空間は、周りの高層ビルの谷間のようだ。それでも遠くから異常を知らせるパトカーや救急車のサイレンが時折り聞こえる。その音は街に溶け込んでいた。本来異常を知らせる音なのに私の日常に溶け込んでいる。 サイレン音は何故か心を落ち着かせる。起きた事件や事故が自分に振りかかるとは想像もしていない。サイレンはどこまでも遠くで鳴っている。私の近くには来ない。それでもそのサイレン音は人の営みを感じ心地いい。ひとりで森に住んでるわけじゃない、誰かが住む生暖かい風を運ぶ街にいる。そして運ばれたサイレン音が町を優しく染めている。 そんな街が美しい。 そんな世界が美しい。 平穏そうに見える今を淡々と描いた映画だった。 美しく優しい。 心が平静になったことで今の「美しさ」に気づいた。「美しさ」は日常の中で膝
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美談にならない話

「世の中は美談に溢れている」 ちょっと斜に構えた言い方をしてみた。 人は美しいものに憧れる。美しい話をしたくなる。感動したくなる。 しかし、その前提に正反対の過酷な現実を求める。 苦労なしには誰も今の現実を美談として語ってくれない。 美談とは陽と陰の組み合わせだ。そして最後は陽で終わらなければならない。 パーピーエンドのない美談は存在しない。 美談の主人公は、必ずしあわせにならないといけない。 でも現実はもっと過酷だ。 最後が必ずハーピーエンドとはならない。 苦境だけで生涯を終える人がほとんどだ。 でも本当は、美談にならない部分にこそ生きる源泉がある。 人を観るとき、その人の一番影の濃いところを観る、それが大事だと思う。 その人の影の部分にうごめいた、憎悪や嫉妬などの醜さを受け入れる許容さが必要だ。 それは後に美談にならなくても同じことだ。 上澄みのような美談を聴いたら、川底に淀む泥のような感情を想像したい。 「闘病記」には、躊躇して書き淀んだ負の感情があった。 それを書けば読み手がどう思うかと、自分の死を空想する時でさえ綺麗ごとにしようとする。そして、そんな自分の哀れさにふっと張りつめたこころが緩む。手が止まる。闘病記の作者はいま、どんな顔をしてこの記を書いているのだろうか?  
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ナンバー2の憂鬱

小学二年生の私は、身体も小柄で奥手で、友達の輪の中でいつも二番目の位置を保とうとしている、そんな臆病な子供でした。 臆病なくせに自尊心だけは高く、今日は誰か自分のことを話題にしないかと、自分に興味を持ってもらうことばかりを考えていました。いつも待つばかりで自分から動き出すことはありませんでした。 小学二年生の集団でも自然と序列ができます。その中のナンバー2は厄介な存在です。立ち位置を保ちながらナンバー1を虎視眈々と狙っています。一番への執着心が強く、勝手にナンバー1をライバル視しています。でもなれないことは薄々気づいています。序列の三番手、四番手は個性を生かして別の路線を歩むことができます。対して、ナンバー2は、いつも一番手を見ているためその道を見失いがちです。上に行く道は遠く、横に逸れる道も想像できないでいます。 ナンバー2が抱える憂鬱は厄介ですね。 ナンバー1の実力が発揮されるのは何か問題が起きた時です。大きな曲がり角をむかえた時です。即座の判断と大胆な決断は魅力的に映ります。でもある人に魅力的に映る景色も別の人には違った景色に見えることがあります。ナンバー2の人材は別の景色を見ています。 大人になっても同じようなことが起きています。新しい波に立ち向かうには強い意志が必要です。しかし波が静かになった凪の状態は、強い意志を得意とするナンバー1には退屈な時間になります。 そんな時力を発揮するのがナンバー2の平らな世の中を好む発想です。平静を保ちながら持続的な状態を維持できる能力です。平静な状態を楽しめる才能です。 ナンバー2には、二番手としての生き方があります。 それはナンバー
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役に立たない思い出や風景

心が疲れたり、悩んで嫌になったとき、そっと寄り添うバラードがある。こんなもの読んでも立ち上がることは出来ない。でも、ノウハウのようにすぐ役立つものは、すぐ役立たなくなる。これも経験済みだ。いつもそうだった。だから今は心に体重をしっかりおきながら、思い出や風景に浸りたい。 「役に立たない思い出や風景」を書いてみたい。 読後に掃除機を掛けたり、カーテンを洗濯してついた埃を洗い流したり、ただ黙々と身綺麗にしたいと思う、そんな風景を描きたい。感動しても落ち込んでもすぐに身体は動かない。だからせめて身の回りから空気を変えたい。蝶の羽ばたきが嵐を起こすようにいずれ世の中が変わるかもしれない。 女優の石田ゆり子さんがこんなことを言っていた。 「ずっと前から思ってた。本を読んでいる人の姿は美しいのに、スマホをいじっている人の姿は美しいとは思わない。つまり、本能的にわかっていること」 FacebookもTwitterも、読めば心が震える。でも、その震えは怒りであれ、歓喜であれ、意図的に増幅されたものだ。文字というより胸に刺さる刃物のようなものだ。 読書は読者まかせになる。だから、読者の数だけ見える世界がある。言葉が異臭を放つこともあるが、心の震えを抑える役目も果たす。 SNSの言葉は、喜びであっても怒りであっても口語に近い。それでいて扱う文字は稚拙なものが多い。まったく美しくない。だから言葉から何も生まれないし風景も浮かんでこない。だだ情報としてその場の感情を垂れ流している。 ここに、オードリーヘップバーンの名言がある。 「美しい唇である為には、美しい言葉を使いなさい。美しい瞳である為には、他人
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混ざりあうことがない人たち

凪良ゆう著「流浪の月」を読み終えた。この文庫本を本屋で手に取ったのは、「映画化決定」の文字からだった。どうも私はこの謳い文句に弱いようだ。そのとき私は映画のスクリーンを前にしていた。物語はまだ始まっていない。帯裏を見ると出演者名に広瀬すずの名前があった。思い出す。「三度目の殺人」で見せた、足と影を引きずる少女の演技に魅かれた。この女優は何処か不幸で訳有りな役が似合うと、勝手な妄想を広げていた。そういえば、映画館入り口のポスターで「流浪の月」を見た覚えがある。それでもその時はそのままスルーしてしまった。いま本屋の書棚を前にしてスクリーンを想像している。観ておけばよかったと後悔している。さらに小説は「本屋大賞受賞作」と帯に謳ってあるではないか。 ページをぺらぺら捲りながら、ろくに読みもせずこの文庫本を買うと決めた。それでも文庫本「流浪の月」は三か月のあいだ、私の書棚に横づけされていた。積まれた小説たちの中で、いつ来るかわからない出番を待っていた。 そして今日、やっと読み終えた。作者の描く二人の動きに、広瀬すずと松坂桃李の顔が重なる。 誰も殺されない、凄惨な事件も発生しなかった。それでも読み終えたとき、濁った湖の底に向かって更紗(広瀬すず)と文(松坂桃李)が手を繋いで沈んでいく感覚が残った。しかし、二人はこころまで泥を吞み込んでいない。更紗と文、作者が描く二人の心理描写は何処までも正直で澄んでいた。 他人と違う自分、親からも「ハズレ」と認識された文、誰にも理解されない事情を抱えながら、そのときそのとき染み出る感情に言葉を拒んだ更紗。二人は再会し居場所を見つけたかのように思えた。それで
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役に立たない思い出や風景

「役に立たない思い出や風景」とは、心が疲れたり悩んで嫌になったとき、そっと心に寄り添うバラードのようなもの。 すぐには役立たない、でもすぐ役立つノウハウはすぐに役立たなくなる。 「役に立たない思い出や風景」を書いてみたい。 読後に掃除機を掛けたり、カーテンを洗濯してついた埃を洗い流したり、ただ黙々と身綺麗にしたいと思う、そんな本を読みたい。感動しても落ち込んでもすぐに身体は動かない。だからせめて身の回りから空気を変えたい。蝶の羽ばたきが嵐を起こすようにいづれ世の中が変わるかもしれない。 女優の石田ゆり子さんがこんなことを言っていた。 「ずっと前から思ってた。本を読んでいる人の姿は美しいのに、スマホをいじっている人の姿は美しいとは思わない。つまり、本能的にわかっていること」 FacebookもTwitterも、読めば心が震える。 でも、その震えは怒りであれ歓喜であれ意図的に増幅されたものだ。文字というより胸に刺さる刃物のようなものだ。 読書は、読者まかせになる。だから、読者の数だけ見える世界がある。言葉が異臭を放つこともあるが、心の震えを抑える役目も果たす。SNSの言葉は、喜びであっても怒りであっても口語に近い。 それでいて扱う文字は稚拙なものが多い。まったく美しくない。だから言葉から何も生まれないし風景も浮かんでこない。だだ情報としてその場の感情を流している。 ここに、オードリーヘップバーンの名言がある。 「美しい唇である為には、美しい言葉を使いなさい。美しい瞳である為には、他人の美点を探しなさい」 美しく生きていくための知恵のような気がする。 綺麗な言葉じゃなくていい。それよ
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音楽が聴こえるストーリー

(役に立たない思い出や風景)音楽と文章はよく似ている。 メロディは哀しい物語に姿を変えて小説の読者を魅了する。音符のひとつひとつは文字であり、ひらがなと漢字の組み合わせは和音(コード)のように、文章の雰囲気をつくりだす。言葉づかいの叡智は、歌い手の声質であり楽器の音色だろうか。 交響曲(シンフォニー)と交響詩。 コンサートマスターは主人公で、オーケストラの各奏者(登場人物)を統率して、コンダクター(著者)の想いを表現している。 1980年代、人気シリーズだった「火曜サスペンス劇場」はエンドロールの主題歌に向かって物語が流れていた。物語は「聖母たちのララバイ」のために書かれたような気がした。 そしてこんなMVにも出会うこともある。 絢香 / 「空と君のあいだに」Music Video(Story1) 歌詞と旋律が物語(ストーリー)をつくりだし、映像で表現している。綾香の声のひびきが感情のうねりと情景描写へと繋がる。 音楽と文章は同じ世界に住んでいる。 いつかこんな物語を書いてみたい。 〈役に立たない思い出や風景〉心が疲れたり、悩んで嫌になったとき、そっと寄り添うバラードがある。こんなもの読んでも立ち上がることは出来ない。でも、すぐ役立つものはすぐ役立たなくなる、これも経験済みだ。いつもそうだった。だから今は心に体重をしっかりおきながら、思い出や風景に浸りたい。
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私たちに欠けているのは、知っているものを深く考える能力である

(役に立たない思い出や風景) 心が疲れたり、悩んで嫌になったとき、そっと寄り添うバラードがある。 こんなもの読んでも立ち上がることは出来ない。でも、すぐ役立つものはすぐ役立たなくなる、これも経験済みだ。いつもそうだった。だから今は心に体重をしっかりおきながら、思ったことを確かめたい。この記事の中でこんなことを書いた。私たちに欠けているのは、知らないものについての知識のことなのではなく、知っているものを深く考える能力である仏社会学者 エドガー・モラン 「科学の言葉」「深く考える」とはどういうことか。わからない。でも、出来るとしたら、「この子は、どう生きてきた子どもなのか」に目を向けることだと思う。そして最近こんな記事も見つけた。「5人家族のうち父、兄、妹が自死。母親は離婚後は疎遠に…」 京アニ放火・青葉真司被告が陥った過酷な家庭環境“負の連鎖”(文春オンライン より)京アニ放火・青葉真司被告が陥った過酷な家庭環境“負の連鎖”だから、もう一度読んでいただきたい。テレビが劣化、陳腐化している。朝、時刻を確かめるためにテレビをつけっぱなしにしている。それでも、以前は何か興味を引く情報が飛び込んできた。身支度が遅れるほどに・・でも最近は・・食べモノ、ジャニーズ、お笑い芸人、野球、サッカー。。。チャンネルを変えても同じことを繰り返している。生番組に芸能人が出れば、それは今日の夜番組の宣伝のため。 誰かに見てもらうためと言うより、テレビに出演する人たちの間で繰り返される村社会の掲示板のよう。それをみんなが見たいと勘違いしている。節電と伝えながら、テレビの無駄は報じない。都合の悪いことは隠す。
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この子は、どう生きてきた子どもなのか

(役に立たない思い出や風景) 心が疲れたり、悩んで嫌になったとき、そっと寄り添うバラードがある。 こんなもの読んでも立ち上がることは出来ない。でも、すぐ役立つものはすぐ役立たなくなる、これも経験済みだ。いつもそうだった。だから今は心に体重をしっかりおきながら、思ったことを確かめたい。新聞の紙面のなかでこんな言葉を見つけた。 「死を照らし出す」 大切なことは、「なぜ亡くなったのか」と同時に、「どう生きてきた子どもなのか」ということだ。 「生き方が表れていないと、死を照らしだせない」 死を照らし出すとは、亡くなったこと、命を失ったことの重大さを伝えることだ。 「生き方が表れていないと、死を照らしだせない」 子ども達が犠牲になる事件が続いている。報道の中で、どうして亡くなったのかは伝えられる。いじめがあったり、虐待があったり。こうして原因の言葉を連ねるだけでも胸の奥が重くなる。自分が何か出来たわけでもないのに、今こうして普通に暮らせる自分が情けなく憎くなる。私はこの子たちよりはるかに多くの時間を生きることが出来たのに。 亡くなったことばかりに目を向けても、その原因を作り出した相手や許した社会を責めるばかりだ。怒りは自分に毒を盛り、触れるだけで身体を震わせ他人を罵る。自分もそこから抜け出せないでいる。 亡くなった子ども達は、写真のなかでいつまでも笑っている。苦しさはそれだけで存在しない。そう思いたい。どこかでしあわせな時間があったことを信じたい。そうしないと、今こうして書いてる自分が息苦しくなる。 何を思って生きていたのか、どんな苦しさだったのか、それでもうれしいときはあったのか、その
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親であること、子であること

(役に立たない思い出や風景) 心が疲れたり、悩んで嫌になったとき、そっと寄り添うバラードがある。こんなもの読んでも立ち上がることは出来ない。でもすぐ役にたつものは、すぐ役立たなくなる、これも経験済みだ。いつもそうだった。だから今は心に体重をしっかりおきながら、思ったことを確かめたい。その日、私は退院後の検査のため病院に来ていた。通路に置かれた長いすに固く座り、レントゲン検査の順番を待っている。手持ちの用紙に記された番号は4568、この番号が何を意味するのか、今も分からない。番号用紙を胸に抱えた囚人の写真を自分に重ね合わせ、苦笑いを隠すしかない。そんな妄想を破壊するかのように看護師だけがてきぱきと動いている。清潔な空気なのに、冷たさしか感じられない病院の通路だった。 私の目の前を、大柄で屈強な男が老婆の手を引いて導いてきた。老女は腰も深く曲がり歩くのも覚束ない。それでも黙々と大男に従っていた。 髪に白髪が混じり始めたこの大男と親子であろうか。男は老女の歩幅に合わせ、目的地への道のりに少し苛立ちを抱えているようだった。ときおり老女に厳しく注意している。それは注意というより怒りに近いものだった。 その姿を傍で見ている身には、もう少し優しく言えないものかと嫌な光景を見た気分だ。しかし、その時の男の母親を見る目はどこか悲しげだった。ままならぬ老女への怒りではなく、年老いてしまった母への不合理な苛立ちと寂しさがあったかもしれない。 手を引かれる老女には、もう自分がこの子の手を引いた記憶はないだろう。今手を引いている息子にも、この母親に手を引かれ駄々をこねてた自分の姿も、記憶の隅にもないかも
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まだ感情を取り戻す術はある

○○の乳児殺害事件 母親に懲役5年求刑 生後間もない乳児を窒息死させたとして、殺人の罪に問われた無職○○被告(24)の裁判員裁判の論告求刑公判が14日、名古屋地裁○○支部であり、検察側は懲役5年を求刑した。公判では、双極性障害(そううつ病)を発症した被告の犯行時の責任能力の程度が争点となった。検察側は論告で、完全責任能力が認められると主張。 「慣れない育児から逃れようと犯行に及んだ」と指摘した。弁護側は「犯行当時、重度のうつ状態にあり、限定責任能力が認められる」と主張。保護観察付き執行猶予の判決を求めた。判決は22日。(記事一部修正有り)新聞の地方版に埋もれていた記事だ。原稿用紙一枚分400文字で済まされていた。 私は、今月この裁判員裁判を傍聴している。今まで6回の公判が行われ、来週判決が下される。 裁判開始直前、法廷に被告が連れられきた。小柄な被告が大柄な二人の刑務官に挟まれ裁判官を待っていた。腰縄が解かれ黒く冷たい手錠が外された。中央には書記官、左の検察官、右の弁護人、それぞれ2名がいる。 3人の裁判官、6人の裁判人が法廷に入ってくると、傍聴人を含めたその場の全員が起立して無言で頭を下げる。傍聴人は毎回20名ほどだろうか、論告が行われた6回目の公判には4つの記者席も用意されていた。その一人が今回の記事を書いたのだろう。 「ひとりの若い母親が生後9日の乳児を殺害した」この事件には、この場だけでも多くの人が関わっている。二人の検事、二人の弁護士、三人の裁判官、6人の裁判員、そして傍聴人。公判で嗚咽混じりに自分の娘と亡くなった孫に懺悔する被告人の母親もいた。精神鑑定をした医師も証
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