教養としてのキリスト教➀:イエス=キリストとキリスト教
父なる神:人間に無償の愛をもたらす、赦す神。
イエス=キリスト:キリスト(救い主)はメシヤ(油を注がれた者、王、ヘブライ語)のギリシア語表記。イエス自身は自らを「(神の)子」「人の子」と呼びまし。
律法主義批判:パリサイ派やサドカイ派などのユダヤ教の律法学者達は律法の遵守を説きましたが、このことは律法を守れない人々に対する差別を生むことになりました。イエスはこうした形式的な律法主義を批判し、安息日にも病人を癒して、形式化した律法を守ることよりも、神の愛を実践することが神の御心にかなうとしました。パウロも律法を守ることで人間が本当に救われるわけではないとし、人間は律法によって悪をなす他ない自らの罪を知るだけであり、律法ではなくキリストへの信仰によって救いに至ると考えました。
律法の内面化:イエスはモーセの十戒の「殺してはならない」という戒めについて、実際に殺さなくても、他者に対して腹を立てれば、それは人を殺したのと同じになると述べ、律法を真に内面化することが本来の信仰のあり方だとしました。「姦淫をしてはならない」という戒めについても、行為をしなければ罪にならないのではなく、内面が問題だとしました。これが「外的規範の内的規範化」であり、キリスト教が世界化する一因となりました。日本文化においても、仏教の戒律(外的規範)をどんどん骨抜きにして肉食妻帯したり、本来先祖崇拝の宗教であった儒教を学問・教育として受容したりしていますが、食物タブーなどの強固な外的規範を持つユダヤ教・イスラーム教が入りにくいのに対して、内的規範が主のキリスト教は受容しやすかった面もあります。
神の愛(アガペー):
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