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Practice makes perfect

言語を習得する近道は何でしょうか。おびーすは実際に「使う」ことだと考えています。ただ使うのではなく、「繰り返し」使う。そしてそれを「毎日」繰り返すことです。そうすれば、英語が自分の生活の一部となり、やがて自分の一部になってきます。これがまさに「practice」。「練習」という日本語でよく使われる英単語ですが、practiceには(理論、計画の)実践、(日常的な)行為、活動といった意味もあります。つまり、practiceという単語には「実際にする」、「繰り返しする」、「習慣的にする」という要素が含まれているということになります。みなさんが日本語がめちゃくちゃ上手なのはなぜでしょうか。それはまさに、おぎゃあと生まれてから大きくなるまで、そして今も日本語をpracticeしてるからではないでしょうか。おびーすも生活の中で英語をpracticeしています。英語の記事を読んだり、英語圏のyoutuberをフォローしたり、何かを考える時に心の中で英語を話したり、外国の人と話したり、、、いまだに音読もしています。自転車は一度乗り方を習得すれば、それでもういくらでも問題なく乗れperfectと言えますが、言語はそうはいきません。社会が移り変わるとともに常に変化し新たな文化を形作っていきます。新しい言葉が生まれ、そして死んでいく言葉もあります。ということは、ある程度言語を"習得"しても、その後practiceをやめてしまうと相対的に言語力は落ちていくということです。そう考えると、本当の言語習得というのは赤ん坊の言語獲得とは違い、終わりはなく、practiceし続けるプロセス自体が「習得している
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非ネイティブが直面する「自然な表現」の壁

子供が「お母さん〜、早く〜!」と言っていた。この日本語にはいろんな情報が詰まっている。こうした表現は当たり前すぎて、教科書やフレーズ集にない。ネイティブにとっては、その場で積み重ねて何度も聞き、身体に馴染ませていくのが自然な習得だと思う。非ネイティブかつ外国でやることの大変さよ
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「教育史点描~最後に残るのは「教育」である~⑨」

(5)「教育」とは結局「人間観」と「教育制度」である ①「人間」は「教育」されない限り、「人間」とはならない 野生児(動物に育てられた人間の子ども)~オオカミに育てられたアマラ(2歳くらい、間もなく死亡)とカマラ(8歳くらい、17歳の時に死亡)は、シング牧師夫妻によって育てられましたが、「オオカミ少女」(顔かたちは人間ですが、することなすこと全くオオカミ)のままだったとされます。このオオカミ少女の事例は今日では否定的に見られていますが、意義深いのはその細部にわたる事実性ではなく、人間は自然に、本能のままに「人間」になるのではなく、「養育」「教育」されない限り、「人間」にはなり得ないことが示唆されたことでした。 「牧師夫妻は、このオオカミ少女をなんとかして人間の子どもにしてやりたいと、一生懸命に努力したのである。カマラは、三年ほどして、支えるものなしにひとりで両足で立って歩くようになった。しかし、急ぐときには、四本足で走りまわっており、この習性は死ぬまでとれなかったという。三年ほどで、手を使って食べるようになり、四、五年して、喜びや悲しみの心を表現するようになった。シング夫人によって、ことばが教えられたが、死ぬまでに、四五語しか使うことができなかったということである。そして、知能は三歳半の子どもくらいだったという。」 (時実利彦『人間であること』) 「植物は恐らくひとりでに成長し、全然実を結ばないか、野生の実を結ぶ。馬はたとえ役に立たないとしても、この世に生まれて来る。しかし、人間は人間として生まれて来るのではなく、人間に形造られるのだ。」 (エラスムス『幼児教育論』) 「幼な子
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