愛情

記事
占い
愛とは伝えるものではなく、受け取る側が気づいて、初めて伝わるものなのかも
「こんだけしてあげてるのに!」は、ただの自己愛自己中
知らぬ間に「こんなにもしてくれてたのか」と気づいた時、愛を感じる
愛とは、気づこうが気づくまいが、ただ淡々と行う。それがたまたま気づいた時爆発的に広がる

昔の中国の先生「孔子」さんが「仁」というものを説きました。
弟子たちが、「仁」とは何ですか?と問うと、
あの行為は「仁」である。
とか、
この思いは「仁」である。
といって、具体的エピソードから仁を説き、決して、「仁」を定義することはありませんでした。
定義すると必ず、違った方面からでは「そうではないよね」という意見も出てきます。
おそらく定義しなかったのは、個人個人の中で、「仁」を形成することが重要であり、
悟ることは個人の気づきでもあり、自分で「これが仁」と思うことが何より大事であり、
それが、時によって変化するものでもあったり、個人の中で修正することもあったり、深まったりして
「仁」が行動として現れたり、思いとしてその人に残っていたりします。
定義すると、
後々の人は「孔子先生がおっしゃったのは●●だからそれはあたらない」とは
いろいろと議論になり、
正解不正解という表面的な議論になってしまう可能性があったのではないかと思います。
言葉では伝わらないこと世の中にはたくさんあります。
無理に伝えよとすると解釈が分かれてしまいます。
仁という抽象的な言葉のキーワードを通じて、
人間形成をしていったのが、孔子先生の教えであったのではないかなと思います。
今回ご紹介した「愛」もひとつの側面です。
論破しようと思えば、いろいろな角度からいろんなことが言えます。
大事なことは、「その人」が愛とはどういうものか、自分なりに落とし込むための
一つの見方であり、パズルのワンピースみたいなものです。
今回の言葉は、その程度のものとして受け取っていただけると幸いです。
※「仁」のエピソード
孔子は弟子の問いに対して仁をさまざまに定義する。若い燓遅(はんち)に対しては「人を愛すること」といい、もっとも優秀な顔回(がんかい)に対しては「己れに克(か)ち(己れを克(よ)くし)礼に復(かえ)る」という(ともに『論語』顔淵(がんえん)篇(へん))。前者は外に対しての行為、後者は自己の内なる修養をさす。具体的な心構えとしては、仲弓(ちゅうきゅう)の問いに答えて「己れの欲せざるところ、これを人に施すなかれ」(顔淵篇)というのがもっともわかりやすい。つまり思いやりの心で万人を愛するとともに、利己的欲望を抑え礼儀を履行すること。ただし万人を愛するといっても、出発点は肉親への愛にある。「孝弟(悌)(こうてい)なる者はそれ仁の本(もと)たるか」(学而(がくじ)篇)。孟子(もうし)は、仁の徳の源は人間性に内在する惻隠(そくいん)の心(赤ん坊が井戸に陥りかけているのを反射的に抱きとめる心)にあると説く。


サービス数40万件のスキルマーケット、あなたにぴったりのサービスを探す ココナラコンテンツマーケット ノウハウ記事・テンプレート・デザイン素材はこちら