誰にも理解されなくても。 ーラース・フォン・トリアー作品の女性たちが教えてくれること。

誰にも理解されなくても。 ーラース・フォン・トリアー作品の女性たちが教えてくれること。

記事
コラム
ラース・フォン・トリアーは、優しくない。


観客が期待するような、
ほっとできる結末は用意してくれません。


痛みも絶望も、
簡単には終わらせてくれない。

ハッピーエンドという逃げ道を残さずに、

人間の一番弱い部分、
一番剥き出しになった部分を、
じっと見つめさせてくる監督です。


彼の作品を観るたびに、

「これは"優しさ"とは真逆にある映画だな」
と感じます。


でも不思議なことに、

その優しくなさの中に、
どうしても目が離せなくなる
何かがあるんですよね。



私が
トリアー作品の中で特に好きなのは、

ダンサー・イン・ザ・ダーク
ドッグヴィル
ニンフォマニアック

の3作品です。


ジャンルも物語も
一見バラバラに見えるのですが、

この3作品には、
ある共通点が流れているように思います。


それは
「理不尽な状況に置かれた女性が、
それでも自分の意志や声を手放さない」

という姿です。



「ダンサー・イン・ザ・ダーク」の主人公セルマは


視力を失いながらも息子のために働き続け、
最終的には
理不尽な運命に飲み込まれていきます。


それでも彼女は最後まで、
自分の中にあるミュージカルの世界…。

現実がどれだけ過酷でも消えなかった
「歌」を手放しませんでした。


あの現実と幻想の落差が、
この映画の残酷さでもあり、

同時に彼女の強さの証明でもあるように感じています。



「ドッグヴィル」では


善良に見えた村人たちが、
少しずつ、グレースという一人の女性を利用し、
追い詰めていきます。


舞台装置のような簡素なセットの中で、

人間の
「正しさ」や
「善意」の裏にある残酷さが、

じわじわと暴かれていく様子が印象的でした。


グレースが最後に下す決断は、
賛否が分かれるところかもしれません。


でも私は、
あの状況の中でも

彼女が最後まで自分の判断を保ち続けたことに、
ある種の凄みを感じました。



「ニンフォマニアック」は


主人公ジョーが自分の性の遍歴を、

出会った男性セリグマンに
延々と語り続けるという
構造そのものが特徴的な作品です。


世間的には理解されにくい、
むしろ非難されやすい経験を、

ジョーは誰かに向かって語り続けます。


その語りの中には、

恥も、痛みも、開き直りも、
いろんな感情が入り混じっているように感じました。



★★★


正直に言うと、
この3作品を観終えたとき、

まず頭に浮かんだのは

「これ、アメリカ人監督が撮った映画じゃなさそうだな」
という感覚でした。


あとで調べてみると、

案の定というべきか、
トリアー監督は、デンマーク出身の方でした。

なんだか
妙に納得してしまいましたね(笑)


ハリウッド映画にも、
日本映画にも、

この独特な
"じっとりとした暗さ"はないように思います。


カラッと突き抜けるのではなく、
湿度を伴ってじわじわと沈み込んでいくような、
ヨーロッパ映画ならではのダークさ



トリアー作品を観るというのは、

その沈み込みに、
あえて自分から
足を踏み入れていくような体験なのかもしれません。



***


トリアー作品をより深く味わうには、

監督特有の演出手法にも触れておきたいところです。


トリアー監督は1990年代、
ドグマ95」という映画運動を提唱した人物でもあります。


人工照明や特殊効果、
後付けの音楽といった
「映画的な嘘」をできるだけ排除し、

手持ちカメラと自然光で、

限りなく
ドキュメンタリーに近い質感で物語を撮る、
という考え方です。


この思想は
「ダンサー・イン・ザ・ダーク」
にも色濃く表れていて、

揺れ動くカメラワークが、
まるで本当に起きている出来事を
隠し撮りしているかのような感覚を観る側に与えてきます。


私自身、
この手持ちカメラの揺れに、

精神的なキツさを
じわじわと加速させられた記憶があります。


作られた物語だと分かっていても、
目の前で本当に誰かが追い詰められているような、
逃げ場のない臨場感がありました。



一方「ドッグヴィル」では、
まったく逆のアプローチが取られています。


舞台となる村には壁がなく、
床にチョークで書かれた線だけで家や通りが示される、
演劇の書き割りのようなセット


観客は否応なく
「これは作り物だ」と意識させられながらも、

それでも
グレースが追い詰められていく様子から、
なぜか目を離せなくなります。


むしろリアルなセットを排除したことで、

人間の
悪意や残酷さという"中身"だけが、
より剥き出しになって伝わってくるように感じました。


初めて観たときは、
その斬新さに驚かされました。



「ニンフォマニアック」でも、
また違ったアプローチが試みられています。


ジョーの語りに合わせて、

時にモノクロになり、
時に画面が静止し、
時に数式や図表が唐突に挿入される。

物語の筋を追わせるというより、
ジョーの記憶や思考の断片を、
そのまま観客に手渡してくるような編集です。


整理された分かりやすい映像ではなく、
あえて散らかったままの構成にすることで、


彼女の中にある混沌―
整理しきれない痛みや欲望―を、

そのまま感じさせようとしているのかもしれません。



※※※


同じ監督の作品なのに、

あるときは徹底したリアリズムで、
あるときは徹底した虚構性で、
あるときは意図的な混沌で、

観客の心をじわじわと追い詰めてきます。


手法はまったく違っても、
目指しているものは同じなのかもしれません。


観客に
「逃げ場」を与えないこと。


この容赦のなさこそが、
トリアー作品の核にあるものだと感じています。



こうして3作品を並べてみると、

トリアー作品に登場する女性たちは、
誰にも本当の意味では理解されません。


それでも語ることをやめない、

あるいは
自分の中にある何かを最後まで手放さない。


この
「誰にも理解されなくても、それでも語り続ける」
という姿は、


私が普段の仕事…

電話やチャットでの相談を通して
人の話を聴く仕事の中で出会う瞬間と、
どこか重なるように感じています。


相談の中で語られる言葉は、
誰かに正しく理解されることを
目指しているわけではないことが多いように思います。


ただ、聴いてもらいたい。
ただ、吐き出したい。

それだけで十分だという瞬間が、
確かにあります。



トリアー作品の主人公たちが、
理解されないと分かっていても

なお
声を上げ続ける姿を見ていると、


「聴いてもらえるかどうか分からなくても、
語ることには意味がある。」

ということを、
映画を通して教えられている気がしています。




それでも彼女たちは、
語ることをやめませんでした。



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