最近、「自己肯定感」という言葉をよく耳にする。
自己肯定感が高くて羨ましい。
自己肯定感を上げたい。
自己肯定感が低いから苦しい。
そんな言葉を見聞きするたびに、私はどこか違和感を覚えていた。
正直に言えば、私は長い間「自己肯定感」という考え方そのものに否定的だった。
なぜなら、私の中での自己肯定感とは、
「他人から評価されなくても、自分で自分を認めて満足すること」
というイメージだったからだ。
もしそうだとしたら、そこにどんな価値があるのだろう。
努力もしていない。
成果も出していない。
誰かの役にも立っていない。
それでも「私は素晴らしい」と自分で自分を褒める。
そんな状態を目指すことに私は強い違和感を持っていた。
むしろ、人は努力し、誰かに価値を提供し、その結果として評価を得るべきだと思っている。
自己肯定感を上げることではなく、他者評価を得られる人間になることの方がはるかに重要だと考えてきた。
そして、この考えは今も変わっていない。
しかし、ある時ふと疑問に思った。
そもそも私が嫌っている「自己肯定感」は、本当に自己肯定感なのだろうか。
調べてみると、心理学における自己肯定感は、私がイメージしていたものとは少し違っていた。
心理学でいう自己肯定感とは、
「できる自分も、できない自分も受け入れられる状態」を指す。
失敗したから価値がない。
成果が出ないから人間としてダメだ。
そう考えるのではなく、
「失敗はした。しかし人間としての価値とは別の話だ」
と受け止められる状態である。
つまり、
「努力しなくていい」でもなければ、
「結果を出さなくていい」でもない。
挑戦し、失敗し、それでも立ち上がるための土台なのである。
この考え方自体には、私も納得できた。
むしろ必要な考え方だと思う。
では、私が感じていた違和感の正体は何だったのか。
それは、世の中で使われている「自己肯定感」という言葉と、本来の自己肯定感とのズレだった。
今の社会では、
「自分を好きになろう」
「ありのままの自分を認めよう」
という言葉だけが一人歩きしているように見える。
その結果、
努力しなくてもいい。
結果が出なくてもいい。
評価されなくてもいい。
そんな解釈に繋がってしまう場面も少なくない。
もちろん、本来の意味はそうではない。
しかし、言葉は使われ方によって意味が変わっていく。
私はここに問題を感じている。
例えば、「負けず嫌い」という言葉もそうだ。
私の親世代や先輩世代にとっては、「負けたくないから努力する人」という褒め言葉だった。
しかし今では、
「負けを認めない人」
「マウントを取る人」
というネガティブな印象を持つ人もいる。
言葉は同じでも、受け取る意味は変わっている。
自己肯定感も同じなのかもしれない。
本来は挑戦するための土台だった言葉が、いつの間にか根拠のない自己賞賛を正当化する言葉として使われることがある。
だから私は、自己肯定感という言葉そのものを否定したいわけではない。
むしろ、本来の意味での自己肯定感は必要だと思う。
ただし、それは目的ではない。
人が目指すべきものは、自分を無条件に褒めることではなく、
誰かの役に立つこと。
価値を提供すること。
責任を果たすこと。
そして、その結果として信頼や評価を得ることだと思う。
自己肯定感は、その過程で生まれる副産物である。
目的になった瞬間に、本質から遠ざかる。
私はそう考えている。
だからこれからも、「自己肯定感を上げよう」という言葉を聞いたら、一度立ち止まって考えたい。
その人が言っている自己肯定感は、本来の意味なのか。
それとも、自分を成長させないための言い訳になっていないか。
大切なのは言葉ではない。
その言葉の奥にある本質を理解することなのだと思う。