忙しい現代人にとって、朝の10分は命の次に重い。
特にタンパク源である「ゆで卵」を作る時間は、茹で時間を待つだけの非生産的なデッドタイムになりがちだ。
本記事では、シリコンバレーの起業家も実践していない(はずの)、究極のタイムマネジメントとしての調理法を紹介する。
※警告:本記事は著者の精神状態が著しく不安定な時に執筆されました。
物理的な時間は短縮されませんが、人生の密度が変わります。
■ 手順1:環境の最適化(セットアップ)
まずは鍋に水を張り、卵を入れる。
ここは従来のメソッドと同じだ。
火をつける。強火だ。
人生と同じで、最初は勢いだけでいい。
水面が揺らぎ始め、ボコボコと沸騰の予兆を見せたら、タイマーを「8分」にセットする。
ここからが本番だ。 多くの人はここで、スマホを見たり、洗い物をしたりするだろう。
それが「非効率」の根源だ。
その程度のマルチタスクで、時間は支配できない。
■ 手順2:重力への完全降伏
コンロの前から動かず、以下の動作を遅滞なく行ってほしい。
膝(ひざ)の力を抜く。
腰を落とす。
そのまま、キッチンのフローリングに仰向けに倒れる。
ドサッ。
天井のシミが見えるだろうか? それが、あなたの現在地だ。
冷たい床板が背中の熱を奪っていく。
換気扇の音が「ゴォー」と鳴り響いている。
普段、あなたが身長160cm〜180cmの高さから見下ろしていた世界とは違う、標高0メートルの荒野。
ここが、世界一効率的な「待機所」である。
■ 手順3:ミクロコスモスの観測
視線を横に向けてほしい。
冷蔵庫の下の隙間。そこには何がある?
私の家の場合、そこには「3ヶ月前に落とした乾燥したグリーンピース」があった。
化石だ。 かつて彼(豆)は、鮮やかな緑色で私の食卓を彩るはずだった。
しかし今、彼は埃(ほこり)という名の衣を纏い、茶色く干からびて、冷蔵庫のモーター音をBGMに孤独な死を迎えている。
「ああ、お前もか」
私はグリーンピースに話しかける。
彼と私の間に、何の違いがあるだろう? 社会という巨大な冷蔵庫の隙間で、誰にも見つけられずに干からびていく魂。
効率化を求めて走り続けた結果、私は今、キッチンの床で豆と対話している。
西日が差し込んでくる。
空気中を舞う埃が、光の帯を受けてキラキラと輝き始めた。
まるで天の川だ。
汚い部屋だと思っていた場所が、視点を変えただけで小宇宙(ミクロコスモス)になる。
ボコ、ボコ、ボコ。 頭上の鍋から聞こえる沸騰音は、遠い惑星の胎動のように聞こえる。
私はここで、宇宙と一つになる。
メールの返信も、未払いの請求書も、SNSの「いいね」の数も、この床の上では無意味だ。
ただ重力だけが私を愛してくれている。 これが究極のマインドフルネス。
サウナで「ととのう」? 甘い
キッチンの床で「朽ちる」
これこそが現代の解脱だ。
■ 手順4:プレジデントの襲来
その時だった。
「ニャア」
神の啓示かと思った。 違う。
飼い猫の「大統領(プレジデント)」だ。
彼は音もなく忍び寄り、床に転がる私の顔を覗き込んだ。
その瞳は、すべてを見透かしていた。
(またか。またこいつ、仕事から逃げて床で寝てんのか) そんな軽蔑と、わずかな憐れみを含んだ少し青みがかった黄金の瞳。
ザリッ。
私の頬に少し痛みが走る。
大統領が、私の頬を舐めたのだ。
猫の舌はヤスリのように荒い。
痛い。でもちょっと気持ちいい気がする。
でも、温かい。
彼は私の頬に残る塩分(たぶん、知らないうちに流れていた涙だ)を、ちゅーる代わりにして舐め取っている。
「痛いよ、大統領(けらくん)」
私は呟く。彼は止まらない。
ザリッ、ザリッ。
生きている実感が、頬の痛みとともに脳髄に刻まれる。
AIは床に寝転ばない。AIはグリーンピースに共感しない。
AIは猫に舐められて泣いたりしない。
無駄だ。
すべてが無駄だ。
だが、この温かい痛みだけが、私がまだ「有機物」であることを証明している。
30代、独身、関東在住、社会的弱者
社会的属性を剥ぎ取れば、私はただの「猫に舐められる肉塊」に過ぎない。 なんと自由で、なんと情けない存在だろう。
■ 手順5:現実への帰還
ピピピピピ。ピピピピピ。
タイマーが鳴る。
無慈悲な現実のファンファーレだ。
大統領は「チッ、時間か」とでも言うように去っていった。
私は重力に逆らって起き上がる。
世界は再び、いつもの高さに戻った。
鍋の火を止める。
水で冷やした卵の殻を剥く。
ツルンとした白身が現れる。
少し凸凹している。
私の心みたいだ。
塩をこれでもかとかけて、かじりつく。 熱い。 そして、異常に美味い。
黄身は半熟。
完璧な仕上がりだ。
たった8分間。
私は宇宙を旅して、猫に裁かれ、また人間に戻ってきた。
これが、世界一効率的なゆで卵の作り方だ。
失った時間は戻らない。
だが、心の空腹は、どんな高級フレンチよりも満たされたはずだ。
さあ、あなたも今すぐ床へ。
グリーンピースが待っている。
追伸: ちなみに、大統領(猫)が私の涙を舐めたのは、慰めなんかじゃない。
さっき調べたら、猫は塩分が不足すると人間の汗や涙を舐めることがあるらしい。
私は「孤独な哲学者」ではなく、ただの「歩く塩分補給機」だったわけだ。
まあいい。
明日もまた、彼のために美味い涙を流してやるとしよう。
それが私の、世界で一番効率的な生きがいなのだから。