「どうして自分ばかり、こんなに大変な役割を背負っているのか」
ふとした瞬間に、そんな言葉が頭をよぎることがあります。
周りを見渡せば、自分だけが過度な重責を担い、誰にも理解されずに損をしているような感覚。
しかし、ここには少し不思議な、そして残酷な「逆転」が起きているのかもしれません。
私たちは往々にして、「大変な事実があるから、そう思う」のだと考えます。
しかし、現実はその逆ではないでしょうか。
つまり、「自分ばかりが大変だ」という思いが先にあり、その思考を裏付けるように現実が形作られているということです。
なぜ「自分ばかり」という状況を選んでしまうのか
もし、誰かに頼ったり、あるいは明確に「ノー」を突きつけたりすれば、自分の負担は軽くなるはずです。
しかし、実際には私たちは、あえて仕事を抱え込み、あえて周囲を頼らず、自ら「自分ばかり」という状況を維持しようとします。
なぜなら、その過剰な忙しさや抱え込みこそが、実は自分を守るための強力な「盾」になっているからです。
忙しさという「不可侵領域」
「自分ばかりが大変だ」と嘆いている間、私たちは一種の聖域の中にいます。
「こんなに頑張っている自分」を否定する人はいないはずだ、という自己防衛の論理です。
もし仮に、その抱え込みをやめて、手元に余白ができたらどうなるでしょうか。
あるいは、誰かに仕事を任せ、自分の役割が空っぽになったら。
その時、私たちは本当の意味で「自分自身」と向き合わなくてはならなくなります。
自分の中に潜む弱さ、能力の限界、あるいは「自分は何のために頑張っているのか」という核心的な問い。
それらから目を逸らすためには、常に「自分ばかりが大変」という状況に身を置き、思考停止するほどに忙しくしているほうが、心理的には安全なのです。
「見ないふり」を続けるための自己犠牲
このメカニズムにおいて、自分を「犠牲者」のポジションに置くことは極めて合理的です。
誰かから指摘される前に、
「これだけ抱え込んでいるのだから、自分は弱くても仕方がない」
「結果が出なくても、これだけやっているのだから自分を責めないでほしい」
と、自分自身に言い訳を用意しているのと同じだからです。
私たちは、自分の脆さを他人に見せないように、そして何より「自分自身」に直視されないように、重い荷物を背負い続けている。
そうして、自ら作り出した「大変な現実」という檻の中に、自ら進んで閉じこもっているのです。
思考が現実を呼び込む
「思う」のが先であり、事実はその思考を補強するために後からついてきます。
「自分ばかり」と強く定義すれば、周囲も自然と「彼(彼女)には頼めばやってくれるだろう」という接し方をしてくる。
そうして、望んだわけではないはずの現実が、まさに自分の思い通りに完成していきます。
もしこの「盾」を置くのなら、まずは自分が「何を守るために、わざと大変な状況を選んでいるのか」を認めることから始まります。
自分の弱さを曝け出す機会を、自ら奪ってはいないか。
自分を直視することが怖くて、忙しさという防波堤を築いてはいないか。
その問いに向き合えたとき、初めて私たちは、自分で抱え込んだ荷物をひとつずつ下ろすことができます。
「自分ばかり」という呪縛を解く鍵は、外の状況を変えることではなく、自分自身が抱えている「守りたいもの」の正体を突き止めることにあるのです。