最近、スマホのメモを開くたびに少し怖くなる。なぜなら、メモアプリがまるで私の思考の鏡みたいになっているからだ。仕事のアイデア、買い忘れた食材、夜中に思いついた変な比喩、誰にも見せられない感情の断片。すべてが同じ場所に無秩序に並んでいる。そこに共通点を探してみたとき、私は驚いた。どうやら自分の「思考の癖」が、あらわになっていたのだ。
メモの最初のページには、「明日の自分へのメッセージ」と題された一文があった。「今日できなかったことを数えず、できたことを3つ書け」。いつ書いたのか覚えていない。おそらく疲れていた日の夜、無意識に自分を慰めたのだろう。スクロールしていくと、「なぜみんな声のトーンで嘘をつくのか」「傘を持っているときに限って雨が止む理由」など、答えのないメモが延々と続いていた。まるで小さな思考の化石たちが、そこかしこに埋まっているようだった。
ある日、ふとそれらを整理しようと思い立った。消して、まとめて、整える。だが5分もしないうちに、私は気づいた。整理しようとするたびに、思考の「生っぽさ」が失われていく。メモは、整えるためではなく、混沌のまま置いておくことで意味があるのかもしれない。そこには、自分でも気づかない視点や興味の欠片が無数に転がっている。
そう気づいてから、私はメモを「対話の相手」として扱うようになった。思いついたことを投げかけると、過去のメモが勝手に応えるように感じることがある。数ヶ月前に書いた「どんな失敗も一時停止できるボタンが欲しい」というメモと、最近の「挑戦の正体は“後悔予防装置”かもしれない」というメモが、勝手に会話を始める。思考が時間を超えて、勝手に自己反応を起こすのだ。
この感覚は、まるで自分専用のAIを育てているようでもある。メモアプリの中には、私の言葉のDNAが詰まっていて、それが少しずつ成長していく。書き残した言葉は、自分が忘れてしまった好奇心や悩みを、あとから再生してくれる。私が変わるたびに、メモの読み方も変わる。数年前の私は、確かに違う言葉を選んでいた。その違いが、変化の証拠として残る。
だから私は最近、メモを削除しない。どんなにしょうもない言葉でも、いつか自分の中で何かとつながる可能性がある。書き散らかすほど、自分の中の未知の回路が見えてくる。メモは「思考の残骸」ではなく、「思考の種」なのだ。
ふと、ココナラで活動しているクリエイター仲間の話を思い出した。彼女は、自分のアイデアの原点を聞かれると必ずこう答える。「全部、スマホのメモにある」。誰に見せるわけでもなく、整理もされていないそれが、彼女の創作の出発点だった。言葉の断片は、やがて誰かの心を動かす作品になる。
私たちは「完成されたもの」ばかりを発信しようとするけれど、もしかしたら本当に価値があるのは、その前段階にある不完全な思考の集合体かもしれない。スマホのメモは、その不完全さを正直に残してくれる装置だ。だから、今日もまた私はメモを開く。何も思いつかなくてもいい。ただ、考えた痕跡を残す。それが、未来の自分への最初の贈り物になると信じている。