すべてはひとつ。だから、どちらもあっていい

すべてはひとつ。だから、どちらもあっていい

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コラム
スピリチュアルな世界では、よく  
「すべてはひとつ」  
という言葉を耳にします。

私もこれまで、この言葉を  
「私たちはみんな、もともとはひとつの源から生まれた存在だから、
魂の深いところではつながっている」  
という意味で捉えていました。

あなたも、私も。  
人も、動物も。  
この世界に存在するすべてのものが、ひとつの大きな源から生まれたもの。


でも、最近ふと、  
「すべてはひとつ」ということには、もう一つの意味があるのではないかと思うようになりました。

それは、

「相反するものも、実は切り離すことができない」

ということ。

たとえば、善と悪。

愛と憎しみ。

光と闇。

喜びと悲しみ。

生と死。



私たちはつい、どちらか一方を「良いもの」として、
もう一方を「悪いもの」として判断しがちです。

でも、本当にそうなのでしょうか?

光があるから、闇を知ることができる。

悲しみを知るから、喜びの深さを知ることができる。

憎しみを知ったからこそ、愛の尊さに気づくこともある。

「生」があるから「死」が存在し、
「死」があるからこそ、「今ここに生きている」ということの尊さを
感じることができる。

そう考えると、どちらか一方だけでは、
もう片方の意味さえ存在できないのです。

では、あなたの中にはどうでしょう?

「こんな自分は好きになれない」と思っている部分はありませんか?

怒り、嫉妬、寂しさ、弱さ、悲しみ……。

できれば見たくない、なくしてしまいたいと思う感情はないでしょうか。

でも、それらもまた、あなたの一部です。

怒りを感じた自分を責めなくてもいい。

悲しんでいる自分を否定しなくてもいい。

嫉妬する自分も、誰かを憎んでしまう自分も、

「こんな自分ではいけない」

と切り捨てるのではなく、

「今、私はそう感じているんだね」

と、その感情さえも抱きしめてあげる。

もちろん、誰かを傷つける行為を肯定するということではありません。

ただ、自分の中に生まれた感情そのものを、良い・悪いとジャッジして
排除しない。

それもまた、自分自身を丸ごと受け入れるということなのではないでしょうか。

そして、これは自分自身だけではなく、誰かとの関係にも言えるのかもしれません。

自分とは違う考え方をする人がいたとき、私たちはすぐに「間違っている」と判断してしまいがちです。

でも、その人には、その人の見ている世界がある。

自分と違うからといって、必ずしもどちらかが間違っているとは限りません。

あなたが「どうしても理解できない」と思う相手にも、  
「この人には、この人にしか見えていない景色があるのかもしれない」  
と考えてみたら、何か違って見えてくるのではないでしょうか?

すべてを好きになる必要はない。

すべてを理解する必要もない。

ただ、

「どちらも存在していい」

というところまで、心を広げてみる。

「ひとつ」とは、  
「みんな同じになること」ではなく、

『違うものが違うまま存在しながら、ひとつの世界をつくっていること』

なのかもしれません。

光と闇があって、世界がある。

喜びと悲しみがあって、人生がある。

愛も憎しみも、強さも弱さも、すべてを抱えながら私たちは生きている。

どちらかを消すのではなく、  
どちらもあることを許していく。

そのとき初めて、  
「すべてはひとつ」という言葉の本当の意味に、
少し近づけるのかもしれません。

そして、もし今あなたの中に、  
「こんな自分は受け入れられない」  
と思っている部分があるのなら。

それを消そうとする前に、そっと問いかけてみてください。

「この私も、いていいのではないだろうか?」

光も闇も、強さも弱さも。

愛せる自分も、愛せない自分も。

そのすべてを抱えた「私」という存在。

どちらもあっていい。  
あなたも、私も、そのままでいい。

そんなふうに、ジャッジすることなく自分や世界を見つめられるようになったとき、

「すべてはひとつ」という言葉が、頭で理解するものではなく、
心で感じられるものになっていくのかもしれません。
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